サミュエル・オボットとウフルー・ダンス・バンド【前編】 [西アフリカ]
今日は先月の記事「ダンス・バンド・ハイライフ天国」で「その話はまた来月」と書いた、
ブロードウェイ・ダンス・バンドの話から始めたいと思います。
http://bunboni58.blog.so-net.ne.jp/2012-08-15
先月もちらっと書いたように、ブロードウェイ・ダンス・バンドは、
ナイジェリア人トランペッターのサミュエル・オボットが率いたバンドで、
57年に設立、ガーナ西部の港湾都市セコンディ=タコラディを拠点に活動しました。
50年代のガーナのハイライフ・バンドは、トランペッターが不足していたという事情があり、
ナイジェリア人トランペッターが多く雇われていたんですね。
ナイジェリアでは英国軍が駐屯した都市でブラスバンドが育成され、
なかでも東部の都市カラバールのブラスバンドは有名でした。
ガーナに雇われたのもカラバール出身者がほとんどで、
サミュエル・オボットもカラバールの有名なトランペッターの一人だったのです。
サミュエル・オボットは44年にレゴスのナイジェリア・ポリス・バンドに参加してプロとなり、
その後南東部ポート・ハーコートに移って自身のバンドを結成します。
当時のサミュエルのバンドには、のちのナイジェリアン・ハイライフ・シーンの大物、
レックス・ジム・ローソンが弟子入りしてトランペットを学んでいたほか、
ヴィクター・オライヤやサム・アクパボットにもトランペットの手ほどきをしたというのだから、
いかにサミュエルが大物かわかろうというものですね。
その後サミュエルはポート・ハーコートから北部のカノに拠点を移し、
エフィク人歌手イニャン・ヘンショーをフィーチャーしたランデヴー・ダンス・バンドを率いて人気を博し、
ガーナ独立の57年にガーナへ移ってブロードウェイ・ダンス・バンドを結成したのでした。
独立後のガーナで次々と野心的な計画を打ち立てていたエンクルマ初代大統領は、
60年、すべてのガーナの楽団に対し、ガーナ芸術評議会による
半年間のアフリカ音楽コースを受講するように命じます。
スウィング・ジャズを範とした西洋風のハイライフ・バンドに、
より伝統的なアフリカ音楽のリズムやメロディを取り入れさせるのが目的でした。
そしてそのコースを最初に受講したのが、ブロードウェイだったのです。
ブロードウェイはエンクルマに気に入られ、大統領や賓客のために大統領府で演奏するほか、
大統領の外遊にも同行するなど、非公式なナショナル・オーケストラとして名を高めるようになります。
その一方、バンド・オーナーとメンバーが対立してバンド名が使えなくなるという事件が起こり、
64年にスワヒリ語の「自由」を意味するウフルーに改称して、活動することになりました。
この当時のウフルー・ダンス・バンドの録音をCD化したのが、“OSIBI” “WOFA WOHO”の2枚です。
トランペット×5、アルト・サックス、テナー・サックス、バリトン・サックス、トロンボーンの9管で
迫るホーン・セクションの音圧が豪快で、そのビッグ・バンド・サウンドは当時最高のものでした。
その後65年に、リーダーのサミュエル・オボットほか一部メンバーが交代し、
ギタリストのスタン・プランジのリーダーのもと第二期ウフル・ダンス・バンドがスタートします。
上記の“WOFA WOHO” には、第二期メンバーで
女性歌手のシャーロット・ダダが参加している曲があるので、
第一期と第二期の録音が混在しているものと思われます。
ちなみにシャーロット・ダダといえば忘れられないのが“Don't Let Me Down” で、
アフリカン・ブーガルー集ともいうべき名編集盤“MONY NO BE SAND” のラストを飾っていたことを
記憶するファンも多いはず。ひょっとしてあの曲の伴奏は、ウフルー・ダンス・バンドだったのかなあ?
なんせ70年にチャビー・チェッカーが西アフリカをツアーした時は、
ウフルー・ダンス・バンドがバックを務めたくらいですからね。
というところで、またまた話が長くなってしまいそうなので、あとは次回に。
Professional Uhuru Dance Band "OSIBI" T-Vibe 13006
Professional Uhuru Dance Band "WOFA WOHO" T-Vibe 10073
V.A. "MONEY NO BE SAND : AFRO-LYPSO/PIDGIN HIGHLIFE/AFRO-ROCK/AFRO-SOUL" Original Music OMCD031
2012-09-16 00:00
コメント(0)
コメント 0