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ファンキー・ハイライフ時代の名盤復活 K・フリンポン [西アフリカ]

K. Frimpong  KYENKYEN BI ADI M’AWU.JPG   K. Frimpong  HWEHWE MU NA YI WO MPENA.JPG

いったい、どういう風の吹き回しなんでしょうか。
70年代ガーナのハイライフの名作が、ぞくぞくとリイシューされるなんて。
エボ・テイラーに続いてK・フリンポンまでも、ガーナ盤オリジナル・フォーマットのまま復刻。
ガーナイアン・ハイライフが再評価されている、なんて話はまるで聞かないので、
アフロビート・クレイズなDJたちの誤解の賜物ですね。
皮肉っぽく聞こえるかもしれませんけど。

でも皮肉じゃなく、エボ・テイラーの“Heaven” 同様、
K・フリンポンが世界中のアフリカ音楽ファンに知られるようになったのは、
例の“GHANA SOUNDZ” に1曲収録されたからなのは、まぎれもない事実。
その選曲された“Hwehwe Mu Na Yi Wo Mpena” は、メロディこそハイライフだけれども、
ブラスの分厚いサウンドが黒いグルーヴを巻き起こす、
アフロビートの影響色濃いトラックなのでした。

こんな調子だから、十年前“GHANA SOUNDZ” を聴いた人が、
ガーナにもフェラみたいなアフロビートをやるミュージシャンがイッパイいる!
なんて思ったのも無理はなく、困ったもんだなあと思ったもんです。
そんな誤解の延長線上で、とうとうガーナ・オリジナル盤までも復刻となったので、
これを機にアフロビートと思い込んで買った人が、「ありゃ?」と思ってくれたらシメたもの。
さらにアフロビートとは違うけれど、カッコイイじゃんと思ってくれたら、めっけもんなんだけど。

当時のファンキー・ハイライフを正しく知ってもらうためにも、
ハイライフの歴史を踏まえた詳しい解説が必携なんですが、
シークレット・スタッシュ盤にはライナーノーツどころか、1行の解説すらなし。
この前のエボ・テイラーのミスター・ボンゴ盤も同様で、
こういう知識のなさがDJ系レーベルのダメなところ。
DJは音源のツマミ食いばかり熱心で、お勉強はからきしダメなのが情けない。
というわけで、以下にK・フリンポンのバイオ情報だけ、簡単に紹介しておきましょう。

♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪

K・フリンポンことクウェシ・フリンポンは、1939年6月、
ガーナ第2の都市クマシに生まれたハイライフ・シンガー兼ギタリスト。
クマシは、17~19世紀に栄華を極めたアシャンティ王国の中心だった古都で、
かつて国連事務総長を務めたコフィー・アナンもクマシの出身で知られる。

フリンポンはアキシム・ジョーカーズやスターズ・オヴ・ザ・レパブリックといった
地元のハイライフ・バンドで修業を積み、1963年にギター・バンド・ハイライフの名門バンドで、
のちに「シキ・ハイライフ」の名で一世を風靡した、
ドクター・K・グヤシのノーブル・キングズにリード・ギタリストとして加入する。

ノーブル・キングズに6年間所属したのちソロ活動に転じ、自身のバンドを結成。
1975年オフォリ・ブラザーズ・レコードから、デビュー作“AHYEWA”をリリースする。
デビュー作では、ジェドゥ=ブレイ・アンボリーのステージ・バンドだった、
スーパー・コンプレックス・サウンズ・オヴ・テマがバックを務めた。

借り物のバック・バンドで制作したデビュー作は成功せず、76年のセカンド・アルバム
“KYENKYEN BI ADI M’AWU” では心機一転、クマシのハイライフ・バンド、
ヴィサヴィを起用して制作。これがガーナ全土で爆発的な大ヒットを記録する。
メランコリックなハイライフを歌うフリンポンのヴォーカルはソウルフルで、
ハイライフの重量感あるサウンドにソウル、アフロビート、レゲエ、
コンゴリーズ・ルンバなど多彩な要素を巧みに吸収した
ヴィサヴィの柔軟な演奏力も、当時抜きん出ていた。

ヴィサヴィ(Vis A Vis)は、隣国コート・ジヴォワールへ出稼ぎしていた時に、
アビジャンのホテル、ヴィサヴィのハウス・バンドを数ヶ月務めたことから命名したバンドで、
フリンポンのバックを務める時には、クバーノ・フィエスタスを名乗った。

そして、大ヒットしたセカンドに続き、翌77年にリリースした
3作目の“HWEHWE MU NA YI WO MPENA” はフリンポンの最高傑作。
ギターを構えたポーズもキマったフリンポンのこの写真、
“GHANA SOUNDZ VOLUME 2” のジャケットで記憶のある人も多いだろう。
アルバムではフリンポンはギターを弾かず、ヴォーカルに専念しているが、
アフロビートを大胆に取り入れたオープニングから、
セカンドを上回るグルーヴに圧倒される。
反復フレーズをしつこく繰り返し、じわじわと熱を帯びていく持続力が聴きもの。
ピヤピヤと鳴るシンセのフューチャリスティックな響きも、この当時らしくてほほえましい。

フリンポンはこの2作の大ヒットを放って、ガーナ・ポリドールへ引き抜かれ、
セカンドの大ヒット曲“Kyenkyen Bi Adi M'awu” のタイトルを変えた“Nye Mea” など、
過去の再演曲を含む4作目をリリース。1980年の5作目を最後に音楽活動から退いた。
その後、95年に“OKWANTUNI” で一時カムバックを果たすが、
2005年10月18日、故郷のクマシで息を引き取った。

K. Frimpong & His Cubano Fiestas "KYENKYEN BI ADI M’AWU" Secret Stash SSRCD30 (1976)
K. Frimpong & His Cubano Fiestas "HWEHWE MU NA YI WO MPENA" Secret Stash SSRCD29 (1977)
コメント(1) 

コメント 1

ペイ爺

>カッコイイじゃんと思ってくれたら
カッコいいっす!とっても!

>こういう知識のなさがDJ系レーベルのダメな
ジャケットの色から発想したのでしょうか、Getした"KYENKYEN BI ADI M’AWU"は“The Blue Album”、“HWEHWE MU NA YI WO MPENA”は“The Black Album”という邦題が付いています。

オリジナルなタイトルがわかって嬉しいです。

by ペイ爺 (2018-10-21 14:08) 

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