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新時代のソマリランド・ロック サハラ・ハルガン [東アフリカ]

Sahra Halgan  HIDDO DHAWR.jpg

ソマリランド出身のサハラ・ハルガンの3作目。
ソマリ音楽の片鱗も感じられなかったデビュー作から一転、
前2作目のローファイなロック・サウンドへの変貌ぶりには驚かされましたが、
新作ではさらにギアを上げたようです。

エチオ・グルーヴやデザート・ブルースに共通する、
ブルージーでディープなロック感覚をソマリ歌謡に持ち込んだ試みは、
ここに完成を見たといえる傑作になりましたね。

前作にはキーボードにオリエンタル・モンド・サウンドの鬼才
グラーム・ムシュニクが参加していましたが、今作はレジス・モンテに交代。
91年にハルガンがフランスへ亡命して以来、
リヨンでともに音楽活動をしてきた仲間の二人、
ドラムスのエメリック・クロールとギターのマエル・サロートは不動です。

エメリック・クロールは、マリの伝統音楽をアップデートするグループ、
ベカオ・カンテットのドラマー。
そしてマエル・サロートは、スイス、ジュネーブのポスト・ロック・バンド、
オルケストル・トゥ・プイサン・マルセル・デュシャンのギタリストです。

ハルガンとエメリック、マエルの3人で制作したデビュー作では、
エメリックとマエルがソマリ音楽を理解していなかったため、
無国籍音楽のような仕上がりになってしまいましたが、
その後ハルガンが、二人にソマリの伝統リズムを仕込んだのでしょう。
前作では、ハルガンのウルレーション(ソマリ語では「マシュハッド」と呼ぶそう)が
効果を上げていたように、ソマリの伝統音楽の要素を前面に押し出し、
ソマリの大衆歌謡カラーミをアップデートしたサウンドも聞かれるようになっていました。

新作はその路線をさらに推し進めて、ソマリのグルーヴをベースに、
多彩なリズムや曲調でサウンドを彩り、そこにギターのダーティなトーンや
ロック・スタイルでパーカッション的なプレイを聞かせるドラムスが、
これまでにないソマリ新時代のワイルドな音楽を生み出しています。

ハラガンの痙攣するヴォーカルが、ヘヴィーなギターにヴィンテージ・サウンドのオルガンと
シンバルの乱打が交錯するオープニングから強烈です。
タイトル曲の ‘Hiddo Dhawr’ なんて、ソマリの民謡ロックそのもの。
なかでも聴きものは、ハルガンがラップする ‘Lamahuran’。
高らかにマニフェストを宣言するかのような ‘Hooyalay’ なんて、
「戦闘員」とアダナされたハルガンの真骨頂じゃないですか。

Sahra Halgan "HIDDO DHAWR" Danaya Music DNA001CD (2024)
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ニューカッスルのルオ人ニャティティ奏者 ラパサ・ニャトラパサ・オティエノ [東アフリカ]

Rapasa Nyatrapasa Otieno  JOPANGO.jpg

ケニヤ西部ヴィクトリア湖畔シアヤ生まれのラパサ・ニャトラパサ・オティエノは、
ルオの伝統楽器ニャティティを弾きながら、ルオの民話をモチーフにした
自作曲を弾き語るシンガー・ソングライター。
現在は北部イングランド、ニューカッスル・アポン・タインを拠点に活動しています。

ラパサの21年の前作 “KWEChE” を聴いた時、
ルオ独特の前のめりに突っ込んでくるビート感がなくて、平坦なリズムに終始しているのに、
昔のアユブ・オガダを思い出し、ガッカリしました。
アフリカの伝統音楽家で、欧米に渡って白人客だけを相手にするようになると、
音楽の姿勢が歪んでくる人がいるので、この人もその部類かなと。

いまではアユブ・オガダを知っている人もほとんどいないでしょうが、
昔リアル・ワールドからCDを出し、来日したこともあるニャティティ奏者。
この人の場合、キャリアの始めから西洋人を意識した音楽をやっていた人だから、
ぼくは、伝統音楽を装ったインチキな音楽家と見なしていました。
オガダを気に入ったピーター・ガブリエルの審美眼って、お粗末だなあと。

話が脱線しちゃいましたが、
そんなわけでラパサの新作もまったく期待していなかったんですけど、
これが存外の出来で、見直しましたよ。

ひとことでいえば、ポップになっているんですよ。
前作ではニャティティの弾き語りをベースに、
曲によってベース、ギターなどがごく控えめにサポートするだけだったのが、
今作は男女コーラスも配して、ウルレーションも炸裂する
華やかなサウンドになっています。

ベンガのビート感はまだ弱いとはいえ、なるほどベンガだと思わせる曲もあって、
サウンドメイクをポップにしながら、
ソングライティングはベンガのルーツを掘り下げたことがうかがわれます。
反復フレーズを強調した曲が増えたこともそのひとつで、
しつこく繰り返す反復フレーズによってダンスを誘い、トランスへと招きます。

なんでも本作の制作にあたってラパサは、
ベンガのパイオニアたちの音楽を研究したそうで、その成果が表れたんでしょう、
クレジットをみると、ルオの一弦フィドルのオルトゥほか、
数多くのパーカッションや笛などのルオの伝統楽器が使われています。
ラパサが8弦楽器オボカノを弾く ‘Adhiambo’ も聴きもの。
オボカノはルオに隣接して暮らすグジイ人の伝統楽器で、
クリーンな音色のニャティティと違って、強烈なバズ音を出します。

ひとことイチャモンをつけたいのは、2曲目の ‘Unite’ だな。
タイトルからもわかるとおりの空疎なメッセージ・ソング。
アフリカのミュージシャンが唱える Unite くらい、現実味のないものはなく、
ぼくはこのワードを発するアフリカ人音楽家の薄っぺらさが、ガマンならんのですよ。
この曲がなかったらよかったのに。

Rapasa Nyatrapasa Otieno "JOPANGO" no label no number (2023)
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エチオ・フォーク・ジャズ ネガリット・バンド [東アフリカ]

Negarit Band.jpg

「エチオソニック」シリーズの新作がひさしぶりに出ました。
フランシス・ファルセトが07年にスタートさせた「エチオソニック」シリーズは、
革命前のエチオピア音楽にスポットを当ててきた「エチオピーク」シリーズと違い、
現在進行形のエチオピア音楽から、
ファルセトの眼鏡にかなったアーティストをピックアップしています。

ユーカンダンツやトリオ・カザンチスを紹介してきたこのシリーズ、
いわゆるコンテンポラリーなポップスならば、
エチオピア現地のレコード会社に任せとけばいいので、
オルタナ的存在のバンドをセレクトしているのがミソ。
今回のネガリット・バンドは、新世代のエチオ・ジャズ・バンドで、
現地ではなかなかレコーディングの機会が与えられない、
インストのバンドをフックアップしています。

ユーカンダンツやトリオ・カザンチスの衝撃に比べれば、
ネガリット・バンドのソフィスケートされたエチオ・ジャズは、
フュージョン志向のエチオピア現地のトレンドと一にするもので、
ファルセトがライナーで言う「スムース・ジャズが中心の
凡庸なエチオピア・ジャズ・シーンの中では特別な存在」とは残念ながら思えません。
じっさいフュージョン的な甘さに流れるアレンジの曲もあって、
エチオピア音階をまったく使わないギター・ソロなんて、ただのフュージョン・ギター。
ファルセトがディスってる傾向は、このバンドにもあることは否定できないでしょう。

ドラムス、ベース、ギター、キーボード、サックス2、トランペットにワシント(笛)の
8人編成で、マシンコ、クラール、ケベロが加わる曲もあります。
エッジの利いた演奏を聞かせる曲もあるんですが、
それを全編で徹底させられなかったところは、やや残念かなあ。

とはいえこのバンドの強みは、リーダーのドラマー、テフェリ・アセファが、
少数民族の音楽に着目して、フォークロアなリズムを取り入れていることでしょう。
特にテフェリがバンド結成以前に、エチオピア南部の音楽を調査したことが
強く影響しているとみえ、ガモ(‘Ethiopia Danosae’)、
イェム(‘Ethiopia Danosae’)、コンソ(‘Kaffa Chafo’)、
ゲデオ(‘Tedayo’)など、南部の諸民族のリズムを多く取り上げているのは、
他にはないネガリット・バンドの個性ですね。

‘Lalibela’ では、ラリベロッチ(アズマリと並ぶエチオピアの音楽職能集団で、
曲名のラリベラは単数形)の歌声をサンプリングして使っていて、
クレジットを見たら、このサンプルは川瀬慈さんが録音したものなんですね。

エチオピア・フォーク・ジャズとして、もう一皮むけてほしいバンドです。

Negarit Band "ORIGINS" Buda Musique 860384 (2023)
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現役復帰直後の輝き ハイル・メルギア [東アフリカ]

Hailu Mergia  PIONEER WORKS SWING.jpg

ハイル・メルギアの新作は、ハイルが演奏活動を再開してまもなくのライヴ盤。
ブルックリンの由緒ある非営利文化センター、
パイオニア・ワークスで16年7月1日に行われたライヴ・パフォーマンスです。

ワシントンDCでタクシー・ドライヴァーとして働いていたハイルの昔のカセットが、
13年にオウサム・テープス・フロム・アフリカによってリイシューされ、
カルト的人気を呼ぶことになるとは、当時本人は想像さえしなかったでしょうね。
まさに青天の霹靂だったはずで、在米エチオピア人に向けて演奏するのではなく、
アメリカ人相手に演奏して喝采を呼ぶことになるとは、
本人にとってオドロキ以外の何物でもなかったでしょう。

ましてや復帰ライヴの記事がニュー・ヨーク・タイムズの一面を飾り、
世界各地のフェスティヴァルに招かれることになるのだから、
人の運命とは分からないものです。

ベースとドラムスによるトリオで、ピアノ、オルガン、アコーディオン、メロディカと
鍵盤類を駆使して、たっぷりと即興演奏を繰り広げるハイルは、
長年のうっぷんを晴らすかのように、イキイキと演奏しています。
ハイルのMCからは、再び演奏を始められた喜びとともに、
新しい観客を得た誇らしさのようなものも感じ取れますよ。

15年にドイツのフィロフォンから出したシングル曲 ‘Yegle Nesh’ を筆頭に、
85年作の “SHEMONMUANAY” から
‘Hari Meru Meru’ ‘Belew Beduby’ の2曲
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2013-07-25
18年作の “LALA BELU” から ‘Tizita’ ‘Anchi Hoye Lene’ の2曲を
演奏しています。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-03-03

ベースとドラムスがすっごくタイトで、ビシッと引き締まった演奏は、
ブルックリンの通のリスナーも大喜びで、めちゃくちゃウケてますね。
現役復帰の輝きがまばゆいライヴ盤です。

Hailu Mergia "PIONEER WORKS SWING (LIVE)" Awesome Tapes From Africa (US) ATFA049 rec. 2016 (2023)
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ニャティティでサイケ・ロック ドクター・ピート・ラーソン・アンド・ヒズ・サイトトキシック・ニャティティ・バンド [東アフリカ]

Dr. Pete Larson and His Cytotoxic Nyatiti Band  2020.jpg   Dr. Pete Larson and His Cytotoxic Nyatiti Band  2021.jpg

ダゴレティというミシガンのインディ・レーベルから、
ケニヤ、ルオの伝統楽器ニャティティのマスターという、
オドゥオル・ニャグウェノのニャティティ弾き語りCDが出ています。
自然音も聞こえるレコーディングで、
携帯電話で録音したというお手軽なものとはいえ、音は悪くないし、
70を超す年齢を感じさせないニャティティの確かな演奏力と、
滋味に富んだ歌い口が味わえる好アルバムです。

Oduor Nyagweno  WHERE I GO, I AM THERE.jpg

その携帯電話の録音主が、レーベル・オーナーのピート・ラーソン。
このピート・ラーソンという人が相当面白い人物で、
オドゥオル・ニャグウェノをきっかけに知ったピート・ラーソンの方に、
がぜん関心がわきました。

ピート・ラーソンは、93年にミシガンで友人のジェイムズ・マガスとともに
アヴァンギャルド・ミュージックのレーベル、バルブ・レコーズを立ち上げ、
カウチというノイズ・ロック・グループで活動するほか、
DJ・パーティ・ガールことフミエ・カワサキのドラムスと2ピースの
メタル・ロック・バンド、25サーヴスでヴォーカルとギターを担当していました。
フミエ・カワサキとは、ダンス・アスホールというノイズ・バンドもやっていますね。
ラーソンはミュージシャンとして活動する時は、
ミスター・ヴェロシティ・ホプキンスという変名を使っていたようです。

バルブ・レコーズは、やがて中西部インディ・シーンに影響力を与えるレーベルに
成長しますが、ラーソンは00年代半ばに音楽活動を休止してケニヤに渡り、
マラリアの疫学研究のプロジェクトに従事したというのだから、急転回です。
現在ドクターを名乗っているのは、ダテじゃないんですね。
ラーソンはアヴァンギャルド・シーンのなかでも、
とびっきり騒々しく強烈なキャラクターで、変人中の変人と目され、
アンタッチャブルな人物という評判でしたけれど、
ケニヤで疫学研究をする人物像とは、どうにもイメージが合いません。

そんなわけで、まったく違った分野の仕事でケニヤへ渡ったものの、
音楽への渇望はあったんでしょう。ケニヤの伝統音楽に興味を持ち、
ニャグウェノと出会ってニャティティを直々に習ったのでした。
16年にナイロビ西部にある地区の名前を取ったダゴレティというレーベルを立ち上げ、
アメリカへ帰国後サイトトキシック・ニャティティ・バンドを結成。
19年にデビューLPを、20年のセカンド、21年のサードでLPとCDを出しました。

そして今回入手したのが、このセカンドとサードなんですが、いやぁカンゲキしました。
全員アメリカ人が演奏しているんですが、まぎれもないアフリカ音楽じゃないですか。
ラーソンが弾くニャティティの短いリフの反復から生み出されるグルーヴ、
そのグルーヴをリズム・セクションがポリリズムへと発展させ、
ドローンのように響くベースの合間を縫って、
のたうつような轟音をギターがとどろかせ、サイケデリックなサウンドを繰り広げます。

サイケデリック・ロックがこれほど見事に
アフリカ音楽に転換されている例もないんじゃないかと書きかけて、
今年初め、オーケストラ・ゴールドに出会ったばかりなのを思い出しました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2023-02-23
アメリカ人は、サイケデリック・ロックを通じてアフリカ音楽を咀嚼するのが得意なのかな?

ベースのデイヴ・シャープは、17年にナイロビのラーソンを訪ねて、
ナイロビでラーソンが率いていたンディオ・ササに参加していたというから、
バンド・メンバーがニャティティの音楽を理解しているのもしかりです。

曲のクレジットがありませんが、ラーソンがニャティティを習いながら覚えたと思われる
ルオの伝統曲や、伝統曲をモチーフとしたオリジナル曲なのでしょう。
徹底したアフリカン・マナーの楽曲が並んでいます。
セカンドでは、ルオ語かどうかはわかりませんが、
女性歌手がアフリカの言語で歌う曲もあります。

サード・アルバムのタイトル、ダンバラとは、ヴードゥーの精霊である大蛇ですね。
この世の万物を創造したとされるダンバラが、
ケニヤのニャティティとどういう関連があるのかわかりませんが、
セカンド・ジャケットでも大蛇を描いているあたり、
ラーソンはヴードゥーにも通じているのかな。
サカキマンゴーとぜひ共演させてみたい逸材です。

Dr. Pete Larson and His Cytotoxic Nyatiti Band "DR. PETE LARSON AND HIS CYTOTOXIC NYATITI BAND" Dagoretti DG36/BLB140 (2020)
Dr. Pete Larson and His Cytotoxic Nyatiti Band "DAMBALLAH" Dagoretti DG41/BLB142 (2021)
Oduor Nyagweno "WHERE I GO, I AM THERE" Dagoretti DG40/BLB151 (2021)
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引退時代の自主制作アルバム ハイル・メルギア [東アフリカ]

Hailu Mergia  YEWEDEKE ABEBA.jpg

あれぇ、こんなCDがあるんだ。
こりゃまた、レアなCDを見つけちゃいましたよ。
エチオピア人鍵盤奏者ハイル・メルギアの98年作。

ワリアス・バンドの鍵盤奏者だったハイル・メルギアについては、
オウサム・テープス・フロム・アフリカがCD化した85年のカセットや、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2013-07-25
エチオピア音楽黄金時代の77年に残したLPのストレート・リイシュー、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2014-11-25
さらに、71歳でカムバックして新たにレコーディングした作品と、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-03-03
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-03-24
ブライアン・シンコヴィッツによるリイシューや新緑を紹介しましたけれど、これは別物。

ハイル・メルギアがアメリカ移住後に残した作品は、
オウサム・テープス・フロム・アフリカがCD化した
85年のカセット1作しか知りませんでしたが、
これは、90年代に残したゆいいつの自主制作作品のようです。
90年代に入るとハイルは、レストランやクラブでの仕事がなくなり、
91年に生活のためタクシー・ドライヴァーに転職しています。
本作は引退状態にあったハイルが、一念発起して制作した作品だったのでしょう。

ハイル・メルギアのほか、ベース、アルト・サックスの3人しかクレジットされていない、
低予算とおぼしきレコーディングは、自主制作ゆえでしょう。
打ち込みがチープなのも仕方のないところで、
85年カセット作のドンカマで耳が鍛えられた(?)せいか、
あまり気にならなくなりました。

ハイルが弾くオルガン、キーボード、シンセが幾重にもレイヤーされ、
生演奏の躍動感には到底及ばないとはいえ、熱のある演奏を聞かせてくれます。
グルーヴィなファンク・ベースとサックスが熱いブロウを聞かせる曲もありますよ。
名前から察するに、ベースはエチオピア人、サックスはアメリカ人でしょう。
全8曲すべてインスト。
いずれもエチオピア音階によるエチオピアン・ムードたっぷりの楽曲です。

Hailu Mergia signiture.jpg
ところで、入手したCDのインナー表紙の裏には、
「マイ・フェヴァリット・オルガニスト、
ジミー・スミスへ」というハイルの自筆があり、
00年8月7日の日付が記されています。
ジミー・スミスとも交流があったんでしょうか。

CDケースには、ハイル・メルギアの
名刺も添えられていました。
(Mergla となっているのは、誤植?)
これをみると、ハイルはアーリントンに
自宅があったようです。
演奏活動をしていたワシントンDCから、
ポトマック川を渡ってすぐの場所ですね。
肩書に「ピアニスト、キーボーディスト、
アレンジャー、プロデューサー」とあるところに、
引退状態にあっても、復活のチャンスを
うかがっていたことが伝わってきます。

Hailu Mergia card mosaic.jpg

Hailu Mergia "YEWEDEKE ABEBA" no label no number (1998)
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修道女の人生に寄り添ったピアノ エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブル [東アフリカ]

Emahoy Tsegé Mariam Guèbru  THE VISIONARY.jpg   Emahoy Tsege-Mariam Gebru  JERUSALEM.jpg

エチオピアの修道女ピアニスト/作曲家、
エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブルに光が当たることなど想像もしなかっただけに、
ミシシッピ・レコーズのリイシューを契機とした再評価には、ちょっとびっくりしています。
旧来のエチオピア音楽という文脈からではなく、
新しいリスナーを獲得しているのは、この人の評価としてふさわしいですね。

06年にエチオピ-ク・シリーズの第21集で出た時には、
エチオピアにはこういう人もいるのかと驚きましたが、そのネオ・クラシカルなピアノは、
濃厚なエチオ・グルーヴを好むファンがスルーするのも、致し方無いところ。
ぼくは関心を持ってフォローしていたので、
12年にイスラエルで出たピアノ・ソロ・アルバムも聴いていましたが、
今となっては、それもちょっとしたレア盤となっていたようですね。

今回ミシシッピがその12年作から7曲、
72年の3作目から3曲を選曲した編集盤を出したんですが、
それを見てさすがに腹が立ち、書き残さずにはおれなくなりました。
批判記事をテーマにしないのが、当ブログのモットーなのではありますが。

ミシシッピの編集盤は、わずか10曲しかコンパイルしておらず、
収録時間35分11秒というケチくささなんですよ。
12年のピアノ・ソロ・アルバムは、全13曲収録時間60分33秒で、
72年に西ドイツで出た10インチ盤の全7曲を含め、
おそらく全曲をCD1枚に収録できたはずだっていうのに。
どうしてこんな中途半端な編集をする必要があるんですかね。

そもそもミシシッピが出したエマホイの2枚のLPも、
エチオピーク第21集の曲をバラして出しただけのこと。
エチオピークが廃盤になっているわけでもないのに、
こんな尻馬に乗ったLP出して、なんの意味があるんだとフンガイしていたんです。

以前からミシシッピのリイシューのやり口に反感いっぱいだったので、
今回もまたか!と怒りをおぼえた次第。
ついでに言うと、ぼくが『レコード・コレクターズ』にミシシッピのレコードを
けっして取り上げないのは、そういう理由からです。
(だからなのか、『ミュージック・マガジン』に書く人がいるけど)

LP時代からCD時代に移り、収録時間が延びたことで、
曲数多く復刻できるようになったというのに、
プレイリストの時代に移って、ヴァイナルに回帰する酔狂の挙句、
曲数を減らして出すって、どんだけバカなんですかね。
レアCDをリイシューするのはたいへん結構だけど、
短縮化して出すレーベルって、根性曲がりすぎだろ。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

書いてるだけでもムカムカしてくるんで、もうこれくらいにして、
エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブルの紹介をしましょう。
エチオピアのエリック・サティだとかドビュッシーなどと形容されるとおり、
エチオピア旋法(ティジータ、バティ、アンバセル、アンチホイェ)を
ほぼ感じさせない独自のピアノを弾くエマホイは、
アズマリに端を発するエチオピア音楽とは無縁の音楽家です。

近代エチオピアを代表する知識人として尊敬される文学者で政治家の
ケンティバ・ゲブル・デスタ(1855-1950頃)の娘として生まれた人ですからね。
エチオピアの下層民である音楽家とは、
天と地ほどにも違う上流階層の出身だったのです。
6歳で父が若き日に神学を修めたスイスへと渡り、女子寄宿学校でピアノを習い、
ヴァイオリンも学びます。63年にファースト・アルバムを録音したのも、
ハイレ・セラシエ1世のはからいがあったからなのでした。

しかしそうした身分に生まれたからこそ、エマホイの人生は、
挫折した運命と苦しみの代償の物語だったと、
フランシス・ファルセトは、エチオピーク第21集で語っています。
第二次イタリア・エチオピア戦争でアディス・アベバがイタリアに占領され、
1937年にエマホイとその家族は、イタリアのアシナラ島の収容所に送られ、
のちにナポリ近郊のメルコリアーノに強制送還されます。
戦後にようやく解放されると、エマホイはエジプトへ渡り、
カイロで再び音楽の勉強を始め、44年になってエチオピアへ帰還します。

しかし彼女は、エチオピアの上流社会の権力と陰謀に絶望してしまい、
信仰の生活を選び修道女となりますが、修道院での過酷な生活にも耐えられず、
アディス・アベバの孤児院で教える道を選び、再び音楽を始めるようになります。
そして67年に母親とともにエルサレムへ渡り、エチオピア正教会の事務所で働きます。
72年に健康状態が悪化した母を看病するためにいったんエチオピアへ戻り、
エチオピア正教会の総主教の秘書を2年間務めますが、
メンギスツの独裁下で宗教迫害に耐え兼ね、
84年にエルサレムのエチオピア修道院へと戻って、
今年の3月26日、99歳で亡くなるその日まで過ごしました。

苦難と孤立の道を歩み、運命に翻弄された彼女のピアノには、
その音楽がどのようにして生まれたのか知らぬ者をも胸打つ響きがあります。
それが、エチオピア音楽という枠外で人を魅了するようになったゆえんでしょう。

Emahoy Tsegé Mariam Guèbru "THE VISIONARY" no label no number (2012)
Emahoy Tsege-Mariam Gebru "JERUSALEM" Mississippi MRI200
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ポップ・ミュージックを無効化したグローカル ファイザル・モストリックス [東アフリカ]

Faizal Montrixx  MUTATIONS.jpg

ウガンダの電子音楽といえば、ニェゲ・ニェゲ・テープスの独壇場といった感じですけれど、
このファイザル・モストリックスは、グリッタービートから登場。
カンパラのエレクトロニック・ミュージック・シーンで
中心的存在のパフォーマーだといいます。
プロデューサー、DJ、コンポーザー、ダンサーという、
さまざまな顔を持つエンタテイナーで、いわば現代的な大衆演芸家なんでしょう。

本作を聴いて、すぐに音楽家じゃなくて大衆演芸家というイメージが湧いたのは、
既存の音楽というか、楽器演奏していた人じゃなさそうと感じたからです。
DAWで音楽制作をする人って、既成の音楽の作法にとらわれずに
音楽を作れる自由さがありますよね。
ポピュラー音楽が発展してきた経路をすっとばして、
ローカルな民俗音楽と電子音楽を接続させた面白さを感じるんです。

アフロフューチャリズムの可能性って、
ポップ・ミュージックを無効化したグローカルにあるのかも。
モストリックスは、トラック・ドライヴァーの父親がケニヤやコンゴから持ち帰った
カセットやCDを通じて、ポップ・ミュージックも聴いていたそうですけれど、
そうした音楽を通過した形跡はまったく聞こえてきません。

地元の割礼儀礼カドディで演奏されるトランシーなリズムを、
ヒップ・ホップ、テクノ、ディープ・ハウス、アマピアノなどを参照して
クリエイトしたのが、ファイザルの音楽といえるようです。

本作には、フィールド・レコーディングされたフォークロアな歌や、
コール・アンド・レスポンスの歌、太鼓、笛、親指ピアノの演奏が
ふんだんにカットアップされています。
そうしたローカルなサウンドスケープとビートが、彩としてではなく、
音楽のベースとしてしっかりと根を張っているからこそ、
電子音楽になじみのない当方でも、強烈に惹かれるみたいです。

Faizal Montrixx "MUTATIONS" Glitterbeat GBCD141 (2023)
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ソマリ・ファンク再始動 ドゥル・ドゥル・バンド・インターナショナル [東アフリカ]

Dur-Dur Band Int.  THE BERLIN SESSION.jpg

夢、じゃなかろか。
ソマリアのドゥル・ドゥル・バンドが、なんとカムバック!
祖国の戦争によって散り散りになっていたメンバーが再結集して、
80年代のモガディシュの黄金時代以来となる、スタジオ録音が実現しましたよ。

03年にロンドンで、ハルゲイサの国立劇場を再建するための
募金プロジェクトが立ち上がり、ディアスポラとなった
かつての音楽家、俳優、コメディアンが招待されました。
これを機に、ドゥル・ドゥル・バンドの創設時のベーシスト、
アブディライ・クジェリを中心に、ドゥル・ドゥル・バンドが再結成され、
インターナショナルの名を加えて、ソマリ人コミュニティで演奏活動を開始したのでした。

その後、このブログでも何度も記事にしてきたように、
モガディシュ黄金時代の音源の復刻が進み、機が熟したのか、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2015-12-16
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-10-25
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2022-12-15
ベルリンの世界文化の家(HKW)が注目して、
モガディシュ黄金時代のアーティストを集めたコンサートが開催され、
ドゥル・ドゥル・バンド・インターナショナルのスタジオ録音も実現したんだそうです。

19年にレコーディングをしていながら、発売まで4年もの時間を要したというのは、
なかなか一筋縄ではいかない諸事情があったんだろうと想像しますけど、
ともあれ無事リリースされて、良かったです。

8人のメンバーに3人の歌手が揃った本作、
スタジオ録音とクレジットされていますが、かなり残響音のある録音で、
大きなコンサート会場で無観客録音したような音に聞こえますね。
ライヴ感のあるミックスも手伝い、往時と変わらないソマリ・ファンクが
よりヴィヴィッドに伝わってきて、胸がいっぱいになります。

西側のリスナーには、まるでレゲエに聞こえる、
ソマリア西部の伝統リズム、ダアントの曲も多くやっていて、
ソマリのグルーヴにやられます。
ドゥル・ドゥル・バンドの再始動を祝うかのような、
モガディシュ出身の画家が描いたジャケットのアートワークも、
この上ない素晴らしさですね。

Dur-Dur Band Int. "THE BERLIN SESSION" Out Here OH036 (2023)
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コロナ禍を超えて ユーカンダンツ [東アフリカ]

Ukandanz  KEMEKEM.jpg

昨年、インスト・アルバム(LP・デジタル)を出したユーカンダンツ。
ヴォーカルのアスナケ・ゲブレイエスが辞めてしまったのかと心配しましたが、
新作ではアスナケが無事復帰。コロナ禍でユーカンダンツの活動がままならず、
アスナケはエチオピアに戻ってたみたいですね。
今回はCDも出ていて、フォトブック仕様になっています。
タイトルの「ケメケム」は、エチオピア、アムハラ州中央のタナ湖に接する、
南ゴンダール県にある郡の名前。

ドラムスとキーボードがまたもや交代していますけれど、ギターのダミアン・クリュゼル、
サックスのリオネル・マルタン、ヴォーカルのアスナケ・ゲブレイエスは不動。
この3人が揃って、ユーカンダンツになるわけね。

冒頭の1曲目から、リオネルのサックスがよく鳴っていて、ワクワク。
アスナケもよくタメて、じっくりと歌っていて、成熟したなあ。
もう力まかせに歌うことはなく、エネルギーをぐっと内にタメることで、
パワーを倍増させる術をモノにしてますね。
ダミアンは、今回ベースも弾いていますよ。

ユーカンダンツの兄貴分ともいえるフランスのエチオ・ポップ・バンド、
アカレ・フーベの2曲目 ‘Alègntayé’ は、ダミアンのギター・リフから、
爆音オルタナ・ロックへとスイッチ。
ヘヴィーなビートにのせて、アスナケがぐりぐりとコブシを回します。
この重厚なサウンドこそ、ユーカンダンツならではで、
間奏ではサックスとドラムスが、思う存分、轟音を鳴り響かせます。

今回も往年のシンガーのクラシックス(マハムード・アハメッドの ‘Lebèsh Kabashen’、
ムルケン・メセレの ‘Kemekem’ ‘Anchin Mesay Konjo’)に、
アスナケのオリジナル曲を織り交ぜて歌っています。
前作のインスト・アルバムに収録されていたアスナケのオリジナル曲
‘Ferjign Chereka’ が、今回は歌入りで聞けますね(LPは未収録)。
この曲がダミアン作の ‘Moon Strike’ にシームレスにつながって、
アルバムは大団円を迎えるという趣向。
ユーカンダンツ、今作も絶好調です!

Ukandanz "KEMEKEM" Compagnie 4000 CIE4009 (2022)
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『ポップ・アフリカ800』不掲載の傑作 ジャン・ボスコ・ムウェンダ [東アフリカ]

Mwenda Jean Bosco.jpg

「レコード・コレクターズ」今月号の2022年の収穫に、
ベルリン民族学博物館が97年に出した、
アフリカン・ギターの偉人、ジャン・ボスコ・ムウェンダのCDを取り上げました。
「収穫」とするには、少々役不足というか、
アフリカ音楽研究家にとっては、たいして珍しくもないCDなんですけど、
ザンゲの報告のつもりで、挙げさせてもらいました。

というのも、ジャン・ボスコ・ムウェンダは、拙著『ポップ・アフリカ700/800』で
重要ミュージシャンとして扱い、1ページを使って紹介した人。
ムウェンダ晩年の88年、南ア・ツアーの折にケープ・タウンでスタジオ録音された
“MWENDA WA BAYEKE” がパッとしなかったので、
82年のベルリン録音の本CDも、見過ごしたままにしていたんですが、
こんな秀作だったなんて、不覚も不覚。

88年録音のドイツ盤は、90年にムウェンダが交通事故で亡くなったあとの94年に出て、
アメリカのラウンダーからも出て広く知れ渡ったアルバムですけれど、
97年に出た82年録音のベルリン民族学博物館盤は、
研究者向けのせいか、あまり流通しませんでした。
このCDについて書かれた記事にも、これまでお目にかかったことがないので、
『ポップ・アフリカ700/800』にセレクトできなかったザンゲの思いも含め、
ご紹介しておこうと思います。

ジャン・ボスコ・ムウェンダ(1930-1990)は、
旧ベルギー領コンゴ南部カタンガ出身のギタリスト。
52年にジャドトヴィルという街でギターの弾き語りをしているところを、
音楽学者ヒュー・トレーシーに見出され、
この時に録音された8曲(インスト演奏含む9トラック)は、
アフリカ音楽史に残る歴史的録音となりました。
この時に録音されたムウェンダの代表曲「マサンガ」は、
ヴォーカル・ヴァージョンとインスト演奏の2ヴァージョンがあります。

50年代にベルギー領コンゴ南部と北ローデシアのコッパーベルト鉱山地帯で発展した
ギター・ミュージックは、レオポルドヴィルやブラザヴィルでウェンドたちが発展させた、
ルンバ・スタイルのギター・ミュージックとは別種のもので、
民族音楽学者ゲルハルト・クービックがカタンガ・スタイルと呼んだギターのパイオニアが、
ジャン・ボスコ・ムウェンダでした。

カタンガ・スタイルのギターの起源はよくわかっておらず、カタンガ・スタイルに限らず、
アフリカのギター・ミュージックの起源が不明なのは、民族音楽学者が
「ヨーロッパ化」「文化変容」した音楽として、フィールド・リサーチの対象から
意図的に排除してきたせいだと、クービックは本CDの解説で強く非難しています。

起源はわからずとも、50年代にコッパーベルト鉱区で発展したのには、
近隣諸国からの出稼ぎ労働者の流入によって、民族文化の垣根を超えた
移住労働者たちが新たな文化を生み出したことが根っこにありました。

さらに、ラジオ、レコードなどのマス・メディアが、この新しいギター・ミュージックを
大きく発展させます。そのサンプルが、ムウェンダが59年にナイロビへ招かれ、
頭痛薬アスプロの宣伝をラジオで行ったことですね。
ムウェンダは半年間ナイロビに滞在する間、販売促進担当として働き、
連日ラジオで流された頭痛薬のCMソング ‘Aspro Ni Dawa Ya Kweli’ は、
東アフリカ一帯に広く知れ渡ることになりました。
この曲は、ルオ人のベンガ・ビートの誕生にも、大きく寄与しました。

そんなカタンガ・スタイルのギターの流行も、60年代半ばに終わりを迎えます。
カタンガの分離独立運動の激化によってコンゴが内戦へと突入したことから、
カタンガへの締め付けが厳しくなり、65年にモブツが権力を掌握したのちは、
さらに弾圧が強まりました。
一方、コンゴ西部のギター・ミュージックがエレクトリック化して、
ルンバ・コンゴレーズとして大流行したことにより、アクースティックの
カタンガ・ギター・スタイルは、時代遅れとなってしまったのです。

しかし、当時すでに成功者となっていたジャン・ボスコ・ムウェンダは、
国営鉱山会社ジェカミネスに籍を置きながら、複数の私企業を所有する事業家となり、
ザンビア国境の町モカンボにホテルを建設し、ダンス・バンドをプロモートするなど、
70年代にはすでにかなりの富を蓄えていたようです。
西側社会では、69年のニューポート・フォーク・フェスティヴァル出演以降、
消息不明となっていましたが、
74年にウイーン大学アフリカ研究所のヴァルター・シチョ教授が、
79年にイギリス人ギタリストのジョン・ロウが、ムウェンダと接触しています。

その後、民族音楽学者ゲルハルト・クービックは、
ムウェンダと1年間手紙をやり取りした末、ムウェンダをヨーロッパへ招き、
82年5月から7月までベルギー、ドイツ、オーストリアをツアーしました。
本作は、6月30日にベルリン民族学博物館で行われたコンサートを収録したもので、
一部同日に民族音楽学部で行われたインタヴュー中に演奏された3曲を含んでいます。

そこで披露されたギターの腕前は、ヒュー・トレーシーが録音した時代とまったく変わらず
見事なもので、なかでもストラミングまで聞かせた ‘Ni Furaha’ には驚かされました。
ヴォーカルも味わいがあり、のちの88年スタジオ録音で、声に潤いがなくなり、
枯れた歌声を聞かせていたのとは、まるで別人です。
88年録音では、ギター・プレイからもスピード感が失われていたし、
ああ、これを『ポップ・アフリカ700/800』に掲載できなかったのは、痛恨であります。

ちなみに、120ページに及ぶブックレットには、ゲルハルト・クービックによる解説が
ドイツ語・英語で掲載。キングワナ語、スワヒリ語、キエケ語の歌詞テキストも、
原語、ドイツ語訳、英語訳の順で掲載されています。

Mwenda Jean Bosco "SHABA / ZAÏRE" Museum Collection Berlin CD21
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むせ返るソマリ・グルーヴに昇天 イフティン・バンド [東アフリカ]

Iftin Band  MOGADISHU’S FINEST.jpg   MOGADISCO  DANCING MOGADISHU.jpg

ソマリアが平和だった80年代、
首都モガディシュでドゥル・ドゥル・バンドと人気を二分した
イフティン・バンドの単独復刻作が、ついに実現!
復刻作業に7年の歳月をかけた、オスティナートによる快挙です!!

イフティン・バンドといえば、
アナログ・アフリカがコンパイルしたソマリ・ポップの名復刻作
“MOGADISCO: DANCING MOGADISHU - SOMALIA 1972-1991” の
スリーヴ・ケースのジャケットを飾っていたバンドですよ。
あのコンピレに2曲収録されたほか、
オスティナートのソマリ音楽のアンソロジーにも、2曲収録されていましたね。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
今回収録されたのは、それらとは別の、初復刻の曲ばかりが並びます。

すんごいねぇ、このむせ返るような、臭みたっぷりのサウンド。
粗悪な録音をものともしない、迫りくるエネルギーがハンパないです。
マスタリングのおかげで、ぶっとい音が再現されていて、
オリジナルのカセットで聴くより、はるかにいい音質になっているはずです。
「エチオピーク」ファンなら、イッパツで気に入ること間違いなしですよ。

いきなりオープニングの、小学生の男の子が歌ってるかのような、
声を張り上げて歌う女性歌手に、あっけにとられました。
シュクリ・ムセというこの女性歌手、7曲目でも歌っているんですが、いやぁ、強烈です。
ペンタトニックのソマリ独特のメロディが、たまりませんねえ。
サックスのブロウも、黄金時代のエチオピア音楽に負けていませんよ。

なにより、ビートが、めっちゃストロング。
ベース・ラインはグルーヴィだし、ギターのリズム・カッティングはエグいし、
ヴォーカルに切り込んでくる、ギター・リックもめちゃくちゃ強力です。
3曲目のオルガンとギターが疾走するグルーヴなんて、悶絶するほかありません。
11曲目のドラムスのフィルインも、シビれる~。

ソマリア南部のバナーディリのほか、さまざまな地方のリズムを援用して、
バリエーション豊かなリズムを生み出しながら、
北米の60年代ソウルをホウフツさせる、見事なソマリ・ソウルを聞かせてくれます。
やたらとレゲエが本格的なのも、ボブ・マーリーがブームになったということ以上に、
ソマリア西部の伝統リズム、ダアントがレゲエそっくりで、
このリズムにソマリ人が親和性があったのが、レゲエの咀嚼ぶりの真相のよう。
ドゥル・ドゥル・バンドも、レゲエがうまかったもんなあ。

イフティン・バンドは、もともと75年に教育省によって設立された国立のバンドで、
ポリオ撲滅キャンペーンや識字向上のための音楽劇など、
国の公衆衛生事業や教育事業に奉仕する役割を担っていました。
77年にレゴスで開催されたフェスタックにも、ソマリア代表として参加しています。
ちなみに、モガディシュでフェラ・クティの‘Lady’ がヒットしたのも、
イフティン・バンドがフェスタック帰りにアフロビートを携えて帰ってきたのが、
きっかけだったそうです。

本作のイフティン・バンドは、80年代初めに教育省をやめ、
国立バンドから民営バンドへ転身した時代のもので、
民営バンドとなったイフティン・バンドは、
モガディシュの高級ホテル、アル・ウルバに集う富裕層や政府職員、
はたまた外国からやってくる出張者や観光客を相手に演奏する一方、
無料で入場できる国立劇場で庶民のために演奏するようになりました。

金持ちから貧しい者まで、あらゆる階層の人々に愛されたイフティン・バンドが、
人気ナンバー・ワンになったのも当然で、モガディシュ最大のバカラ市場では、
イフティン・バンドの最新カセットを求めて、行列ができるほどだったそうです。

こうしたカセットは、ラジオ・モガディシュのような機材の揃ったスタジオではなく、
アル・ウルバに設けられた仮説スタジオで録音されたものでした。
ミキサーにレコーダーを繋げただけの設備で、
録音技術を知るエンジニアなど、一人もいなかったそうです。
本作には、82年から87年にかけてアル・ウルバと
国立劇場の地下で行われた録音14曲が、収録されています。

長きに渡り秘密のベールに閉ざされてきた、ソマリ音楽黄金時代の逸品。
アナログ・アフリカがリイシューしたドゥル・ドゥル・バンドに続く名編集盤で、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-10-25
2022年リイシュー大賞はこれにキマリ!

Iftin Band "MOGADISHU’S FINEST: THE AL-URUBA SESSIONS" Ostinato OSTCD013
Dur-Dur Band, Omar Shooli, Mukhtar Ramadan Iidi, Bakara Band, F. Qassim and Waaberi Band, Iftin Band, Shimaali & Killer
"MOGADISCO: DANCING MOGADISHU - SOMALIA 1972-1991" Analog Africa AACD089
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声の破壊力 ヤンナ・モミナ [東アフリカ]

Yanna Momina  AFAR WAYS.jpg

ひさしぶりに、スゴイもん、聴いちゃいました。
ジブチの老婆の歌。
いや、これは歌といえないかな、チャントですね。
まさにプリミティヴそのもの。
音楽の原初の姿を聴くような、そんな音楽です。

ティナリウェンのプロデューサーで知られるイアン・ブレナンが、
世界の秘境を訪ねてレコーディングしてきた、
「ヒドゥン・ミュージックス」シリーズの10集目。
正直このシリーズ、どれも貴重な音源ではあるものの、
資料的価値にとどまるものがほとんどだった気がするんですが、本作は違います。

老婆ヤンナ・モミナを伴奏するのは、カラバシを叩く男性と、
ギターを弾く男性2人の3人のみ。
1曲目は、ベース音のように1音を規則正しく鳴らし続けるギターをバックに、
ヤンナがチャントする曲なんですが、はやこの1曲で、ノック・アウト。
ヤンナのチャントのパワフルなことといったら。
プリミティヴゆえの純度の高さに、圧倒されます。

もっとも、過度に化粧された音楽に聴き慣れた耳には、
こういう音楽の聴きどころがわからなくて、退屈するかもしれないなあ。
野趣な味わいが好きな者には、またとない音楽ですよ。

このニュアンス豊かなチャントの秘密は、声に付いて回る細かな揺れにあるようです。
音を伸ばすときにかかるヴィブラートとは違って、
語りで発声している声に、ずっと微妙な揺れが伴っていて、
それが複雑なニュアンスを生み出しているんですね。

これらのチャントはすべてヤンナの自作だそうで、
英訳されたタイトルから察するに、世俗的な事柄を語っているようです。
ヤンナはエチオピア系のアファール人で、おそらくイスラーム教徒と思いますが、
ヤンナの音楽にはイスラームの要素を感じさせません。
エチオピアやソマリ、アラブの音楽とも違います。

アファールの伝統音楽を知らないので、
ヤンナの音楽が、どのくらい伝統に沿ったものなのかがわからないのですが、
音楽性はフォークロアというより、ブルースに近いように感じます。

それにしても、強靭なこの歌いぶりは、フィールド・ハラーに匹敵しますね。
ギターと男性コーラスを伴奏に歌う3曲目が、特に強烈。
メロディやコード感もいっさい無視の、
ヤンナの怒号のようなシャウトは、ハチャメチャに聞こえます。
伴奏を弾き飛ばすかのような自由でハジケた歌いぶりが痛快で、
胸がスカッとしますね。破壊力満点の歌いぶりに降参です。

手拍子と、ドゥーワップのベース・ヴォーカルのような男声を伴奏に
チャントする7曲目も、スゴイ。
徐々にヒート・アップして、ウルレーションを炸裂して高揚していくところは、
ヴードゥーやグナーワのようなトランシーな魅力があります。

ジャケットの迫力に、これはイケるかもと思ったけど、まさしく大当たり。
はじめは、とにかくヤンナの声に圧倒されるばかりでしたけれど、
聴けば聴くほど、野趣な味わいにやみつきになる、名作です。

Yanna Momina "AFAR WAYS" Glitterbeat GBCD131 (2022)
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へへ、ゴゴ、スワヒリ、英語で歌うレトロ・タンザニア ワヘンガ [東アフリカ]

Wahenga  KIKWETU KWETU.jpg

タンザニア音楽のレーベル、レトロタンを昨年再起動したロニー・グレアムさんが、
デジタル・リリースした新作3タイトルのプロモCDを送ってくれました。

前回は、ターラブの初録音を残したザンジバルの歌姫シティ・ビンティ・サアド、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-09-17
タンザニアのドライ・ギターの祖、フランシス・ラファエル・ムワキチメ、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-09-19
伝説のギタリストのジャン・ボスコ・ムウェンダの息子ディディエという
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-09-21
三者三様のラインナップでしたが、今回も女性ターラブ・グループのタウシ、
ギターと親指ピアノのデュオ、ワヘンガ、ムジキ・ワ・ダンシのシカモー・ジャズと、
それぞれ異なる個性豊かなアーティストが選ばれています。

今回はワヘンガを取り上げましょう。
04年にノルウェイ大使館主催のパーティーで演奏の依頼を受けた
ギタリストのジョン・キチメが、親指ピアノ奏者アナニア・ンゴリガを
誘って誕生したのが、ワヘンガです。
パーティで二人の演奏は大喝采を浴び、
その後毎月のように大使館から出演を依頼されるようになったそうです。

翌05年、アメリカのバンジョー奏者ベラ・ブレックが、バンジョーのルーツ探訪の旅で
タンザニアを訪れた際にワヘンガと出会って意気投合し、ワヘンガはベラ・フレックの
09年のアフリカ・セッション・アルバム“Throw Down Your Heart” に参加します。
さらに、このセッションに参加したトゥマニ・ジャバテ、デ・ガリ、ヴシ・マハラセラなど
他のアフリカのミュージシャンとともに、ベラ・フレックと全米ツアーをしています。

ギタリストのジョン・キチメは、昨年レトロタンの第1弾リリースされた
フランシス・ラファエル・ムワキチメの息子なのですね。
現在JFKバンドを率いて活動するほか、
キリマンジャロ・バンドのメンバーでもあるジョンは、
オーケストラ・マカシー、ヴァイジャナ・ジャズ・バンドなど、
タンザニアの名門ダンス・バンドを渡り歩いてきたヴェテラン・ギタリストです。

一方のアナニア・ンゴリガは、両親が親指ピアノ(リンバ)を弾いていたものの、
習ったことはなく、大人になってから弾き始めたのだそうです。
5歳の時に視力が衰えたことから、盲学校へ通うようになり、
そこでギターとピアノを習得しましたた。初等教育を終えると、教会の合唱団に入団し、
合唱の指導や作曲をしていたというのだから、すでに才能は開花していたのでしょう。
成人してダル・エス・サラームに移り住むと、さまざまなバンドから誘われて歌い、
オーケストラ・マキ(バナ・マキ)のリーダー、チマンガ・アソーサなどの大物とも、
ステージを共にしています。

09年にダル・エス・サラームのスタジオで録音された本作は、
ムジキ・ワ・ダンシのバンドで演奏しているようなレパートリーではなく、
ヘヘ人のジョンとゴゴ人のアナニアにとって昔馴染みの、
伝統的な歌が取り上げられています。
スワヒリ語で歌われる曲は、ジリペンドワと呼ばれるオールディーズで、
アルーシャ出身のギタリスト、フランク・ハンプリンクや
ケニヤのフンディ・コンデの曲をカヴァーしているとのこと。

アナニアが歌う‘Muziki Wa Asili’ は、ドドマで踊られる
ムペンダという祝いのダンス・チューンで、いかにもゴゴらしい曲ですね。
フクウェ・ザウォーセを思い起こす人も、きっといるはず。
熟練の音楽家二人による、リラックスした歌と演奏がなんとものびやかで、
レトロ・タンザニアの味わいを堪能できます。

Wahenga "KIKWETU KWETU" RetroTan RT005
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更新されたエチオピアン・ポップ アスニ・ズバ [東アフリカ]

Asne Zuba  EFOY.jpg

エチオピア音楽レーベル、ナホンの新作CDを手にしたのは、いつ以来だろう。
もう記憶にもないくらいだから、5年以上は手にしていないはず。
それもそのはず、アメリカではデジタル・リリースのみになってしまったからで、
CDはいまやエチオピアでしか生産されていません。

エチオピアから届いたナホンの新作、アスニ・ズバなる男性シンガーのアルバムで、
VOL.1 とあるのは、デビュー作ということでしょうか。
経歴はわかりませんが、本作はレゲエを中心としたポップスを歌っています。
フォークロアなエチオピア色はないものの、コンテンポラリーなサウンドのなかに、
ほんのりとしたエチオピアらしさが感じられます。
新時代のエチオ・ポップといった佇まいがいいですね。

4曲目の‘Worku Kan Fikatu’ なんて、洗練されたサウンドにティジータのメロディが、
ふわっと香ってくるようなパートがあったりして、新しさをおぼえます。
こういう<さりげなさ>って、これまでのエチオピア音楽にはありませんでしたよね。
アクの強い<エチオピーク>の時代を思うと、ずいぶん遠くにきたもんだ。

プロダクションもすっかり良くなりましたねえ。
ナホンといえば、打ち込み主体の低予算プロダクションがお決まりだった時代が
長く続きましたけれど、すっかり見違えました。

作曲陣4人のなかに、エチオ・ロック・バンド、ジャノのギタリストで
音楽監督のマイケル・ハイルがいるのが、気になりました。どの曲を書いたんだろう。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-03-21
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2013-07-03

キレのある歌いぶりを聞かせたかと思えば、
粘っこくも歌えるし、さらりと歌うこともできる。
曲の表情に合わせて自在な歌いぶりを聞かせる、アスニのヴォーカルが魅力。
語尾につける独特のヴィブラート使いや、こぶし回しもうまいし、
R&B、ラガマフィン、さまざまなサウンドに柔軟に対応できる人です。
全16曲、収録時間69分強は、詰め込みすぎにも思うけれど、
新人らしいイキオイが伝わってくる力作です。

Asne Zuba "EFOY" Nahom no number (2022)
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エチオ・ジャズ・フロム・LA キブロム・ビルハネ [東アフリカ]

Kibrom Birhane  HERE AND THERE.jpg

ロス・アンジェルスからエチオ・ジャズのアルバムが届きました。

トランペット奏者のトッド・サイモン率いるエチオ・ジャズ・バンド、
エチオ・カリのキーボーディスト、キブロム・ビルハネのリーダー作です。

エチオ・カリのゆいいつの作品である、14年に出たライヴ録音のカセットでは、
キブロム・ビルハネは不在でしたけれど、新世代ジャズ・ファンが注目しそうな
カマシ・ワシントン、マーク・ド・クライヴ=ロウ、
ヴァルダン・オヴセピアンなんてメンツが参加していました。
ただ残念なことに、エチオ・カリはまだスタジオ録音がないんですよね。

キブロム・ビルハが、エチオ・カリに先んじてスタジオ・アルバムを出したわけなんですが、
エチオ・カリからサックスのランダル・フィッシャー、ギタリストのナダヴ・ペレド、
パーカッションのカヒル・カミングスの三人が参加しています。
エチオピア人メンバーは、8・9・10曲目でベースを弾く、
アディス・アベバで売れっ子のベーシスト、ミスガナ・ムラットだけのようですね。

オーヴァーダビングなしの一発録りのレコーディングだそうで、
きっちりリハーサルを積んだことがわかる、しっかりとしたアンサンブルを聞かせます。
バンドキャンプの紹介には、
「エチオ・ジャズとスピリチュアル・ジャズの融合」なんて書かれていますが、
何を指して「スピリチュアル・ジャズ」と称するのか、意味不明。
スピリチュアルを名乗るような攻撃的、ないし瞑想的な演奏はなく、
いたって標準的なムラトゥ・アスタトゥケ直系のエチオ・ジャズが展開されていて、
アメリカ人が聞き慣れないエチオピア音楽の旋法に、
「スピリチュアル」と誤読してるだけとしか思えません。

というのも、ヨーロッパと違って、アメリカの音楽ジャーナリズムでは、
エチオピア音楽に無知丸出しな記事をちょくちょく目にするからで、
本作のレヴューでも、‘Weleta’ を「アフロ・ラテン」だとか、
「ボサ・ノーヴァの影響」(リム・ショットにボサ・ノーヴァを連想する悪癖)なんて
書いていたりするから、ヒドイもんです。勉強して出直してこーい!

というわけで、ジャケットこそ、サン・ラを思わすコズミック/サイケ趣味の
アートワークですが、内容はスピリチュアルともサイケとも無縁な、
オーソドックスなエチオ・ジャズ。
キブロムは鍵盤だけでなく、クラールも弾いていて、歌も歌っています。

アフロビートのニュアンスを加えた‘Merkato’、ソウル・ジャズ風味の‘Maleda’、
キブロムがヴォコーダーを駆使したエチオ・ファンク仕立ての‘Tinish Tinish’ など、
さまざまなアイディアを施しているのも楽しめますね。

キブロムは、19年10月6日、アディス・アベバで開催された
アディス・ジャズ・フェスティヴァルに招聘され、ハイル・メルギア、サミュエル・イルガ、
ケイン・ラブ、アレマイユ・エシュテといったアクトとともに演奏を行っています。
そのときのメンバーを見たら、ぼくが注目しているギターのギルム・ギザウがいて、
嬉しくなってしまいました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2017-03-04

歌手中心のエチオピア音楽シーンでは、
なかなか活躍の場が少ないエチオ・ジャズだけに、
こういうアルバムが登場するのは、嬉しい限りです。

Kibrom Birhane "HERE AND THERE" Flying Carpet no number (2022)
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エチオピアン・コンテンポラリーR&Bの新星 ニーナ・ギルマ [東アフリカ]

Nina Girma  MAJETE.jpg

いよいよエチオピアでも、アフロビーツ世代の登場ですね。
これまで発表したシングル3曲ではラップを披露していたニーナ・ギルマですが、
エチオピアで2月17日に発売されたデビュー作は、
ラッパーにとどまらず、シンガーとしての魅力をアピールしています。

まず聴く前から、ジャケットのヴィジュアルに感じ入っちゃいました。
欧米のポップスとなんら遜色のないデザイン・センスは、
これまでのエチオピアン・ポップとは、がらりイメージの変わるもの。
それでいて、ニーナのファッションを見れば、耳飾りやラフィアで編んだ帽子に、
エチオピアの伝統が取り入れられていて、
伝統とモダンの鮮やかな融合が見て取れます。
こうしたアフリカのイメージを刷新するモダンなヴィジュアルは、
近年のアフリカのファッション界のトレンドでもありますね。

そんな秀逸なジャケットが、アルバムの音楽性を匂わせるとおり、
コンテンポラリーなR&B/ヒップホップ色の強いサウンドにのせて、
ニーナのチャーミングなヴォーカルが、いきいきとハジけています。
そしてジャケットが暗示するとおり、マシンコ、クラールといった
エチオピアの伝統楽器を使ってエチオピア民俗色を溶け込ませることも
忘れておらず、ダンスホール/ラガやアフロビーツと親和性の高いサウンドに、
エチオピアのアイデンティティを刻印しています。

本作を制作したのが、活躍目覚ましい若手プロデューサーのカムズ・カッサ。
ぼくがカムズに注目するようになったのは、
ティギスト・ウォーイソのアルバムがきっかけでしたけれど、
ティギスト・ウォーイソの09年作が、カムズのプロデュース初仕事だったとのこと。
今回初めて知りましたが、その後二人は結婚したんですね。
カムズは、ティギストと同じ南部ワライタの出身なんだそうです。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2013-07-07
(『音楽航海日誌』のサンプラーで、ティギスト・ウォーイソが聞けます)

カムズは、10年代からエチオピアのミュージック・シーンで活躍を始め、
アスター・アウェケ、テディ・アフロ、ハメルマル・アバテなど、
多くの歌手を手がける敏腕プロデューサーへと成長しました。
そのカムズが全面バックアップしたことは、CD背表紙にもカムズの名が書かれ、
インナーの裏表紙にカムズの写真がでかでか載っていることにも、よく表れています。

3年前、チェリナのデビュー作に、
エチオピアン・ポップの世代交代を実感したものですけれど、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-01-06
ニーナ・ギルマがそれに次ぐ大型新人であることは、間違いないですね。

Nina Girma "MAJETE" Shakura no number (2022)
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アフロビーツ世代のエチオピアン・ポップ ヘノック・マハリ [東アフリカ]

Henok Mehari  AZMACH.jpg   Henok and Mehari Brothers  790.jpg

コンテンポラリー・ポップの新作も取り上げておきましょう。
ヘノック・マハリは、78年アディス・アベバ生まれ。
04年に“EWNETEGNA FIKIR (TRUE LOVE)” でデビューした、
キーボードを弾きながら歌うシンガー・ソングライター。

04年作は買ってはみたものの、もう手元にないので、記憶にありません。
ヘノックはその後、ギターのロベル、ベースのルワムの3兄弟で
ヘノック&マハリ・ブラザーズを結成し、2枚のアルバムを残しています。
16年に出した“790” は大ヒットとなり、ケニヤの音楽祭で音楽賞を受賞するなど、
エチオピア内外で人気を高め、大きく飛躍するキッカケとなりました。

この“790” には、ちょっとオドロいたんです。
エチオピアからも、ついにこんなポップ・ロックが出てくるようになったのかと。
言葉を意識しなければ、まるでウェスト・コースト産ポップ・ロックじゃないですか。
エチオピア色はまったくありませんけれど、
ポップスとしてのクオリティは、相当高い作品でした。

バンド名義ではなく、ヘノックのソロ名義となった新作は、“790” と同路線。
アフロビーツと親和性を感じさせる、21世紀型ポップスとなっていて、
レゲトンやEDMなども取り入れながら、ヘノックの明るい声が引き立つ、
親しみやすいロック・サウンドを展開しています。
尖ったところのない、中庸なポップスといった印象ですけれど、
キャッチーなメロディと、割り切りのいいサウンドづくりがいい相性。

ラッパーをフィーチャーしたレゲエの‘Tibeb’ もグルーヴィだし、
ヴォーカル・ハーモニーの利いた‘Shekilaw Seriw’ もいいけど、
ウチコミのマシン・ビートに、肉感的なマシンコの弓弾きや、
ロベルのロック・ギターが交叉する‘Ayderegim’ が、アルバムのハイライトかな。
ヴァラエティ豊かな曲が並んだ好盤。これは売れなきゃ、ウソだよね。

Henok Mehari "AZMACH" Awtar no number (2021)
Henok and Mehari Brothers "790" Henok Mehari no number (2016)
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グルーヴィになったエチオピアン・ゴスペル アディサレム・アセファ [東アフリカ]

Adisalem Assefa  JOROYEN LIBSA.jpg

カルキダン・ティラフンの新作に、
エチオピアン・ゴスペルの近作の充実ぶりを感じたばかりですが、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-11-18
ここ数年のゴスペル作品がどれもが水準以上で、驚かされます。

4~5年くらい前に、エチオピアン・ゴスペルをごっそり買って、
ほぼ全部処分してしまうという、憂き目に遭ったもんだから、
すっかり懲りちゃって、ずうっと遠ざかっていたんですよ。

何が変わったかといえば、ウチコミに頼った平板なプロダクションから、
腕のあるミュージシャンを集めて、生演奏主体のスタジオ録音になったことですね。
特に、ドラムスが人力というだけで、これだけ印象が変わるかというくらい、
ガラッとサウンドが良くなったのを感じます。

歌手はいずれも歌える人たちばっかりだから、
バックさえ良ければ、当然見違えるような出来栄えになりますよね。
それから、楽曲も良くなりましたね。新しいソングライターが出てきたんでしょうか。
ゴスペル・アルバムは同じような曲調ばかり続くという悪印象も、一掃されましたよ。

今回聴いたのは、男性歌手のデレジェ・マセボ、女性歌手のアイダ・アブラハム、
セラム・デスタ、エイェルサレム・ネギヤ、サムラウィット・カエサル。
どのアルバムも聴きごたえがあったんですが、
曲の良さでヘヴィロテになりつつあるのが、アディサレム・アセファです。

この人の08年の2作目“SEBARIW GIETA KEFITIE WETTUAL”、
13年の3作目“YAMELETE ENIE NEGN” ともに手放してしまったので、
定かな記憶はないんですけど、この4作目は過去作とは段違いにグルーヴィです。
アレンジャーに4人の名前が連ねられていますが、
14曲中10曲をアレンジしているメスフィン・デンサが、サウンドのキー・パーソンかな。

10曲目の‘Tamagn New’ のベース・ラインなんて、
チャック・レイニーやポール・ジャクソンをホウフツさせるプレイぶり。
70年代ソウルを下敷きにしたグルーヴィさに、こちらのツボを押されまくりで、悶絶。
ベースの名演曲ですよ、これ。

そしてアディサレムは、チャーミングな歌声でこぶし使いもたっぷり披露していて、
ゴスペル=薄口の式はもはや当てはまりませんね。
悲しみに暮れる人に寄り添い、ともに嘆き、
一緒に立ち上がる力を与えてくれるようなメロディは、
なるほどゴスペルと思わせます。

ティジータのような泣きの演歌とは違って、
哀しみにそっと寄り添いながら、背中を撫でるようになぐさめ、希望の光をともし、
聖歌隊のコーラスとともに、歓喜へといざなう高揚感に満たされるメロディに、
信心のない者でも胸を打たれます。

Adisalem Assefa "JOROYEN LIBSA" no label no number (2018)
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グローバライズされた新感覚エチオピアン・ポップ ミッキー・ハセット [東アフリカ]

Micky Haset.jpg

ジャケットのコスチュームから、伝統系のシンガーかなと思ったら、大ハズレ。
オープニングは、エチオピア色皆無のコンテンポラリー・ポップ。
2曲目はラウル・ミドンふうのギターに、コーラスとブラスが絡みながら、
最後にギター・ソロも披露する、なかなか洒落たアレンジを聞かせてくれます。
主役のミッキーのスムースな歌い口は、
フュージョン・アルバムにフィーチャリングされるタイプのシンガーのよう。

ビート・ミュージックにも似た打ち込みを強調しつつ、音数を絞った3曲目でも、
柔らかなサウンドのテクスチャとソフトなヴォーカルが絶妙で、
チェリナのデビュー作を思わす新感覚のエチオピアン・ポップが味わえます。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-01-06

かと思えば、4曲目はアムハラらしいハチロクで、マシンコやクラールも登場します。
ミッキーはコブシを回さずに、スマートに歌い切っていて、その手触りは新感覚。
このサウンドをエチオ色が薄れたといぶかしむ向きもありましょうが、
ぼくはグローバライズされた新時代のエチオピアン・ポップとして、「アリ」だと思うなあ。
6曲目のティジータなんて、新世代のエチオ情緒という感じで、ぼくは支持しますね。

5曲目のソフトなファンク、7曲目はレゲエ、そのほかレゲトンなどもやりつつ、
アルバム・ラストは、ホーン・セクションを従えた従来のエチオピアン・マナーなポップスで
締めくくっていて、う~ん、ウマい構成ですねえ。

この人のバイオについては情報がないんですが、
Vol.1 とあるので、デビュー作なんでしょうね。
ミュージック・ヴィデオはいくつかネットに上がっていて、
一番古い17年のヴィデオでは、なんとトランスをやっていてビックリ。

その後生音中心のシンプルな音楽性にシフトしたらしく、
エレクトリック・ギター、アクースティック・ギター、
ベース、サックス、男女コーラスをバックに、
ミッキーはジェンベ2台にハイハットとシンバルのセットを叩きながら歌う、
スタジオ・ライヴふうのヴィデオがあります。
こうした変遷を経て、たどり着いた本作、今後も楽しみな人です。

Micky Haset "HASET" Micky Haset no number (2021)
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解き放たれた歌声 ラヘル・ゲトゥ [東アフリカ]

Rahel Getu  ETEMETE.jpg

デビュー作は、こうでなくっちゃねえ。
若さはじける歌声がまばゆい、ラヘル・ゲトゥのデビュー作です。
94年アディス・アベバ生まれ、
11歳から青少年シアターで歌手兼俳優としてキャリアを積んできた人だそう。

メリスマをテクニカルに効かせながら、アーティキュレーションも鮮やかな
ダイナミズムを感じさせる歌いぶりのオープニングから、
リスナーをその歌唱に引きずり込みます。
晴れ晴れとした堂々たる歌いっぷりに、
思わず上手いなぁとウナった1曲目に続く2曲目では、
一転チャーミングな歌いぶりに変わり、もうラヘル・ゲトゥの魅力にクラクラ。

ラヴァーズ・ロックばりのチャーミングなレゲエの3曲目、
泣きのサックスが入ったティジータの4曲目、
マシンコとクラールをフィーチャーしたアムハラ民謡調のタイトル曲と、
どんなレパートリーにもぴたっとハマる歌唱は、
デビューしたばかりの新人とは思えぬものがあります。

それもそのはず、ラヘル・ゲトゥはエチオピア初のガール・ユニット、
イェンヤ Yegna の一員だったんですね。
イェンヤは、13年に英国の国際開発省(当時)とナイキ財団が設立した
ガール・ハブから誕生したプロジェクトでした。

ガール・ハブは、女性の地位向上をめざした社会運動で、
教育の制限や早期の強制結婚、家庭内暴力にさらされる少女たちを、
新たなネットワークによって連帯させ、少女たちの意識を変えるとともに、
社会変革を促すことを目的としていました。
エチオピアでは、約700万人の思春期の少女たちが1日2ドル以下で生活をしていて、
約半数の少女が15歳までに結婚し、10人中9人が外出に許可が必要で、
5人に1人は友だちがまったくいないと答えています。

5人組のイェンヤのなかで、ラヘル・ゲトゥは、ゼビバ・ギルマとともに最年少でしたが、
当時のインタヴューなどを見ると、もっとも積極的に発言しています。
彼女たちの初のミュージック・ヴィデオは、50万回の視聴回数を越え、
2作目のヴィデオでは、デスティニーズ・チャイルドやインディア・アリーをてがけた
ダレン・グラントが起用され、イェンヤの人気は決定的なものとなりました。

それと同時に、彼女たちはラジオ・ドラマで、ストリート・ガール、
過保護な親に抑圧された少女、都会の社交的な少女、
家事に忙殺される田舎の少女、暴力的な父親を持つ少女を演じました。
ドラマの最後に放送されるトーク・ショウでは、ドラマで提起された問題を取り上げて、
少女たちに考えさせ、固定観念で凝り固まった行動を変えることを促しました。

エチオピアのスパイス・ガールズなどと形容された彼女たちでしたが、
こうしたガール・ハブの運動を通して成長したことが、
ラヘル・ゲトゥの歌声に、凛とした輝きを宿しています。

Rahel Getu "ETEMETE" Awtar no number (2021)
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非常事態宣言下のエチオピアン・ゴスペル カルキダン・ティラフン(リリィ) [東アフリカ]

Kalkidan Tilahun (Lily)  EYULIGN.jpg

エチオピア北部ティグレ州で続く政府軍とティグレ人民解放戦線(TPLF)の内戦により、
11月3日エチオピア政府は、ついに非常事態を宣言。
南進するTPLFに備え、アディス・アベバでは当局が市民に対し、
保有している武器を届け出て自衛に備えよと呼びかける、緊迫した状況に陥りました。

ちょうどその二日前、エチオピアのお店にオーダーしたばかりで、
あちゃあ、これじゃあ、お店は閉まっちゃうんだろうなあ、と思っていたら、
「11月4日14時42分 発送済」のメールが送られてくるじゃないですか!
えぇっ? 大丈夫なの?と驚いたんですが、荷は無事に到着しました。

そんな非常事態下のエチオピアから届いたのは、ゴスペルの近作。
エチオピアン・ゴスペルは、アメリカのコンテンポラリー・ゴスペル同様、
聖か俗かという歌詞の違いだけで、音楽はエチオピアン・ポップとなんら変わりありません。
俗にゴスペルといいますが、正確には福音派プロテスタント、ペンテコステ派の音楽で、
正直ここのところずっと敬遠していた分野であります。

というのも、エチオピアン・ゴスペルは、おしなべて薄口の歌手ばかり。
ウチコミ中心の低予算のプロダクションは聴きどころも乏しく、
4・5年前に買った10枚近くのゴスペル・アルバムも、ほとんどを売ってしまったくらい。
なので、ゴスペルはもういいやと思っていたんですが、
最近はプロダクションがぐんと向上したというので、手を伸ばした次第。

で、届いた近作のいずれも高水準なのに驚いたんですが、
なかでもベストの出来だったのが、リリィ・カルキダン・ティラフンの新作。
リズム・セクションは打ち込みでなく、人力。
シンセやピアノをレイヤーした鍵盤奏者の腕前とセンスはかなりのもので、
バックのミュージシャンのレヴェルは相当に高い。
しばらく聞かないうちに、すっかり見違えるクオリティになっているじゃないですか!

リリィ・カルキダン・ティラフンは、現代ゴスペルの人気シンガー。
エル・スールの原田さんは、「福音派プロテスタントのゴスペル歌手に変身しての新譜」と
書いておられましたが、それはなにかの勘違い。
この人は、ずっと以前からゴスペル歌手であります。

リリィは、1927年にエチオピア南部で創立された、
ケール・ヘイウェット(生命の言葉)教会を代表するシンガーですね。
愛称のリリィは、最初に付いたり、最後に付いたり、定まっていないようですけれど、
「本名に戻り」ということではなく、以前からカルキダンを名乗っていました。

新作は、過去作とは比べものにならない仕上がりで、
スタジオ・セッション的なサウンドは、エチオピアでトップ・クラスの
スタジオ・ミュージシャンを集めたんじゃないかな。

特に、ベースがいいですね。
グルーヴィな手弾きとスラップの使い分けが巧みで、
グイノリのベース・ラインにゾクゾクしますよ。
8曲目‘Tadia Lemin Metahu’ の最後のベース・ソロからは、
ジャズのスキルもしっかりと聴き取れますね。
また、随所できらっと光るオブリガートを残すギタリストも、
オクターヴ奏法を駆使するなど、ジャズを通過していることをうかがわせます。

こぶし使いは抑えめで、きりりと張りのある歌声を聞かせるリリィのヴォーカルは、
以前と変わりありませんが、ぐっとヴォーカルの音圧が増したように感じるのは、
やっぱりバックの良さかな。
こんな作品が出てくるなら、ゴスペルだからとスルーしていられませんね。

Kalkidan Tilahun (Lily) "EYULIGN" Love and Care no number (2021)
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オロモのカリスマの遺作 ハチャル・フンデサ [東アフリカ]

Haacaaluu Hundeessaa.jpg

昨年暗殺された、エチオピアのオロモ公民権活動家で、シンガー・シングライターの
ハチャル・フンデサの遺作が、初命日となる6月29日にリリースされました。

ハチャル・フンデサは、86年、オロモ人の抵抗運動の拠点
オロミア州アンボで、貧しい家庭の五男に生まれました。
牛の世話をしながら、学校のクラブで歌いながら育った少年でしたが、
17歳のときに、オロモ解放戦線(OLF)を支援する
学生運動に加わったという嫌疑で逮捕され、
逮捕後の正規な手続きを経ずして、5年間もの獄中生活を送ります。
当時オロモ人は政府から激しい弾圧を受けていて、
オロモ解放戦線(OLF)の活動も禁止されていました。

ハチャルは5年間の刑務所生活で、
同じ受刑者のオロモ公民権活動家から多くを学び、
政治的なアイデンティティを形成していきます。
読書をしながら音楽を作り、釈放されたときには、
すでにファースト・アルバムとなる曲の多くが出来上がっていました。
09年に出たデビュー作“SANYII MOOTII” は、記録的なヒットを呼び、
ハチャルはわずか22歳で、オロモ人の新しいスターとして、
国民的な人気を勝ち取ります。

そして、15年に出したセカンド・アルバム“WAA'EE KEENYA” で、
ハチャルはオロモの文化的アイコンへと大きく成長します。
オロモ農民の土地を収奪するアディス・アベバの拡張計画に抗議した
シングル曲‘Maalan Jira’ が発売されると、オロミア各地方でデモがたちまち発生し、
この曲はアディス・アベバ拡張に抗議する市民のアンセムとなりました。
ゲラルサと呼ばれるオロモ抵抗運動のプロテスト・ソングによって、
ハチャルは人々に政治的覚醒をもたらしたのです。

その後、反対運動が実って、アディス・アベバ拡張計画は頓挫し、
オロモ革命のサウンドトラックとなったハチャルの歌は、
エチオピアで初のオロモ人首相を18年に誕生させる、大きなエネルギーとなりました。

昨年6月29日の夜、アディス・アベバ郊外のコンドミニアムでハチャルは銃撃を受け、
ティルネシュ・ベイジン公立病院に運ばれますが、帰らぬ人となりました。
死の一週間前には、殺害予告を受けていることを、
ハチャルはインタヴューで明かしていました。

ハチャル死亡を聞きつけた数千人の弔問客が、
ティルネシュ・ベイジン公立病院に押し寄せ、
警察が催涙ガスで群衆を解散させる騒ぎとなったほか、
葬儀においても治安部隊が2人を射殺し、7人の負傷者を出す騒ぎとなりました。
その後も、オロミア地方の各地でハチャル銃撃への抗議活動が頻発し、
約160人の死者が出ています。

エチオピアから遠くロンドンにおいても、ハチャルの死の翌日の6月30日に、
ウィンブルドンのカニサロ・パークに置かれたハイレ・セラシエ皇帝像が、
オロモ人抗議者によって破壊されました。

オロモ文化を体現し、文学性の高い詩的な歌詞によって、
オロモの民衆の心をつかんできたハチャルでしたが、
その音楽はオロモのコミュニティに閉じたものではなく、
アムハラや他の民族にもアピールする音楽性を有しています。
ときにアムハラ語に由来する文学的修辞も使いながら、
すべてのエチオピア人にアピールしようとしてきました。

そうした姿勢は音楽面にも表れていて、
本作にコンテンポラリーなレゲエ・サウンドで聞かせる曲や、
マシンコ、ワシント、クラールをフィーチャーした曲があるように、
エチオピア人すべてが共有できるサウンドを使いながら、
エチオピア最大の民族でありながら迫害され続けてきた、
オロモ人の問題を訴えているんですね。

ハチャルが民族を越えて、多くのエチオピア人に愛されたのは、
共感に満ちた人間的魅力にあったと聞きますが、
細やかにこぶしを使って歌うハチャルのヴォーカルには、
人を包み込む温かさがありますね。
情感に溢れたその歌い口は、歌詞のわからない外国人には、
とてもプロテスト・ソングと思えないほど朗らかに響きます。

洗練されたデザインに、美しい印刷の5面パネル仕様の特殊パッケージは、
エチオピア製としては破格のもの。オロモのカリスマとして、
エチオピア社会に偉大な足跡を残した歌手の遺作にふさわしい意匠です。

Haacaaluu Hundeessaa "MAAL MALLISAA" Wabi no number (2021)

【追記】ミュージック・マガジン今月号の輸入盤紹介でもレヴューしていますが、
デジタル・リリースという表記は編集部による誤りですので、ご注意ください。
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エキストラになった東アフリカのドライ・ギター フランシス・ラファエル・ムワキチメ [東アフリカ]

Francis Raphael Mwakitime.jpg

新生レトロタンの2番は、ギタリストのフランシス・ラファエル・ムワキチメ。
旧レトロタン時代の95年にリリースされていたカセット作品の再発です。

フランシス・ムワキチメは、イギリス領タンガニーカ時代の1920年代に、
内陸の中南部にあるイリンガ地区のトサマガンガに生まれました。
地元のカトリック小学校に通い、神父の指導でブラスバンドに加わり、
トランペットの演奏を始めます。
続いてアコーディオン、ギター、マンドリン、ウクレレにも挑戦し、習得します。

やがて40年代に普及した蓄音機やラジオ放送によって、
ジミー・ロジャーズやジーン・オートリーなどの北米のカントリー・ミュージックを知り、
東アフリカのトルバドールたち、フンディ・コンデやロスタ・アベロなど、
多くのギタリストに影響を受けます。
50年代後半にはタンガニーカ放送局で音楽活動をはじめ、人気を不動のものとしました。

ムワキチメの歌は、かつてドイツ軍と苛烈な闘いを繰り広げた
ヘヘ人の抵抗運動を取り上げた曲が多く、
ムワキチメが生まれる以前の歴史的な事件を、民族の歴史として伝承する
語り部の役割を担っています。
ヘヘの伝統歌や子守唄のほか、ヘヘの言い伝えや警句をまとめたものなど、
レパートリーはいずれも、ムワキチメの出自の
ヘヘの伝統に沿ったもので占められていますね。

いずれの曲もフィンガー・ピッキング・スタイルのギターで、
穏やかに歌うムワキチメに、奥さんのクリスティーナが
コーラスで華を添える曲もあります。
クリスティーナがリードをとる‘Sambulihate’ では、
キベナ語の方言で歌っています。

東アフリカのギター・ミュージックのドライ・ギターの流れを汲むもので、
スムースなフィンガリングのギターにリズム面の面白さはないものの、
ゆるいフォーク・サウンドは、ここちよく耳に響きます。

AFRICAN ACOUSTIC GUITAR SONGS FROM TANZANIA, ZAMBIA & ZAIRE.jpg

本作には95年のカセット音源のほか、ボーナス・トラックが付いていて、
70年代にジョン・ローが録音して、アメリカのオリジナル・ミュージックから出した
“AFRICAN ACOUSTIC : GUITAR SONGS FROM TANZANIA, ZAMBIA & ZAIRE”
収録のムワキチメの4曲がまるまる収録されています。

四半世紀前の70年代録音も基本的にギター・スタイルに変化はないものの、
70年代録音の方が、メロディをきわだたせるようなピッキングをしていて、
年を経てピッキングが流麗になって、メロディを流し弾くようになった印象があります。
そこが、カタンガ・スタイルに発祥したドライ・ギターが、
エキストラになったゆえんでしょうか。

Francis Raphael Mwakitime "EXTRA DRY" RetroTan RT002 (1995)
Losta Abelo, George Kazoka, Magwere Blind School Band, Joseph Mkwawa, Francis Mwakitime and others
"AFRICAN ACOUSTIC: GUITAR SONGS FROM TANZANIA, ZAMBIA & ZAIRE" Original Music OMCD023
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初のフル・アルバム・リイシュー シティ・ビンティ・サアド [東アフリカ]

Siti Binti Saad.jpg

ロニー・グレアムさんといえば、
88年に出版した“Stern's Guide to Contemporary African Music” に、
どれだけお世話になったことか。ぼくだけじゃなく、古手のアフリカ音楽ファンにとっては、
92年の続編ともども、マスト・アイテムの必携書でしたね。

ロニーさんは、グレイム・イーウェンズ、チャールズ・イスモンとともに、
アフリカ音楽のリイシュー・レーベル、レトロアフリックを共同経営して、
E・T・メンサー、フランコ、スーパー・イーグルスなど、
さまざまな音源を復刻してきたことでも良く知られています。

そのロニーさんが、タンザニア音楽のレーベル、レトロタンを再起動させました。
レトロタンは、94年にタンザニアでカセット・レーベルとして発足し、
シカモー・ジャズ、ビ・キドゥデなどの新作をはじめ、
ヴィジャナ・ジャズ、オーケストラ・マキの復刻など、新録から旧録まで、
ジャンルもムジキ・ワ・ダンシからターラブ、ヒップ・ホップまで幅広く扱っていましたが、
98年に財政が行き詰まり、倒産してしまったといいます。

そのレトロタンをもう一度復活させようと、活動再開にあたって、
リイシュー3タイトルをリリースしたんですね。デジタル・リリースのみなのですが、
ロニーさんがプロモCDを送ってくださったので、紹介したいと思います。

記念すべき活動再開第一弾アルバムは、
なんとザンジバル伝説の歌姫、シティ・ビンティ・サアドのSP録音集です。
昨年、世界中のアフリカ音楽ファンの間で、シティ・ビンティ・サアドのひ孫、
シティ・ムハラムのアルバムが話題沸騰になりましたけれど、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-07-30
シティ・ビンティ・サアドのフル・アルバムのリイシューは、これがもちろん初。

リイシューの原盤となったのは、SPではなく、なんと出所不明の白レーベルのCD。
08年にザンジバルを訪れていたロニーさんが、
ストーン・タウンのギゼンガ・ストリートの雑貨店で見つけ、
いずれ正規な形で出せればと、ずっと保管していたのだそうです。
それがシティ・ムハラムとの出会いでライセンスを得たことによって、
レトロタン再出発の第一弾となったんですね。

シティ・ビンティ・サアドの初録音については、昨年の記事でも少し触れましたが、
シティの人気に目をつけた地元のインド人実業家が録音を画策したのが、事の始まり。
1928年3月、イギリスのグラモフォン社は、
インドのボンベイ(現在のムンバイ)にシティ・ビンティ・サアドを招いて、
グラモフォンの出張録音技師ロバート・エドワード・ベケットのもと、
東アフリカ人音楽家初の録音を行います。

シティの伴奏を務めたザンジバルの音楽家たちの出身は、さまざまでした。
リク(タンバリン)奏者のムワリム・シャーバン・ウンバイェは、
1900年マラウィ生まれ、コーラン教師としての訓練を受け、詩人で作曲家でもありました。
ヴァイオリン奏者ムバラク・エファンディ・タルサムは、1892年モンバサ生まれ、
そして、ガンブス奏者ブダ・ビン・スウェディと、
ウード奏者スベイティ・ビン・アンバリの二人が
地元ウングジャ(ザンジバル)島生まれでした。

カルカッタでプレスされた56枚のヒズ・マスター・ヴォイス(HMV)盤が、
東アフリカ沿岸部のスワヒリ語の地域向けに出荷されると、
飛ぶような売れ行きを示し、大成功を呼びました。
あまりにも売れるので、レコードは毎月10曲に限って発売され、
さらに売行きを伸ばしたといいます。

続いて2度目の録音が30年に、3度目の録音が31年に行われ、
シティは、レコード125枚に262曲を吹き込んだという記録が残っています。
しかし現存するのはその1割にも満たないといいます。
現存するSPはわずかであるものの、ソマリアやコモロのラジオ局に
アーカイヴ・コピーが残されていて、今回の音源もそうしたものの可能性がありそうです。

ちなみに、30年の2度目の録音では、エジプトの名歌手ウム・クルスームと出会い、
シティはウムから大きな歓待を受けたのだそうです。
ウムは、東アフリカで初の録音歌手となったシティの野心に感銘を受け、
シティと彼女のグループのために、公式のレセプションを開催したといいます。

3人の音楽家たちは、シティのバックで合いの手を入れたり、コーラスを歌ったり、
また時に奔放な動物が吠えるような擬態声をあげたり(‘Juwa Toka’)と、
生々しい演唱を聞かせます。

かなり音質の悪いトラックもあり、音質面では厳しいアルバムではありますけれど、
やせた音の中からも、艶めかしさをヴィヴィッドに伝えてくれる曲も多く、
シティ・ビンティ・サアド初のフル・アルバム・リイシュー、待望の貴重作です。

Siti Binti Saad "THE LEGENDARY MUMBAI RECORDINGS" RetroTan RT001
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エチオ・ヒップ・ホップの記念碑 リジ・ミケル・ファフ [東アフリカ]

Lij Michael (Faf)  ATGEBAM ALUGN.jpg   Lij Michale (Faf)  ZARE YIHUN NEGE.jpg

エチオ・ヒップ・ホップ・シーンを牽引するラッパー、
リジ・ミケル・ファフ待望の新作が、6年ぶりに届きました。
15年のデビュー作“ZARE YIHUN NEGE” はエチオピアで大ヒットを呼び、
ヒップ・ホップ・アルバムでこれほど幅広い層に受け入れられたのは、
エチオピア初という評判が伝わってきています。

その評判がよくわかるのは、全曲メロディアスで、
いわゆる歌ものヒップホップといえるアルバムだったからです。
男女シンガーが数人フィーチャリングされて、
エチオピアらしいメロディがちらりと顔をのぞかせる場面もあるものの、
バックトラックのサウンドは、R&Bやダンスホール・レゲエが支配していました。

それが、今回のセカンド作ではどうです。
エチオピア色をぐっと前面に押し出し、
これぞエチオ・ヒップ・ホップといえるスタイルを打ち出しているじゃないですか。

オープニングの‘Naniye’ から、
エスケスタ(肩を大きく動かすダンス)を誘うビートが手招きします。
3曲目の‘Addis Ababa’ ではアムハラのリズムにのせて、
男性シンガーとマシンコをフィーチャーし、4曲目の‘Hager’ はグラゲのリズム、
5曲目はエチオピア色濃厚なメロディで、エチオ・ヒップ・ホップを主張しています。
メロディや旋法ばかりでなく、ヒップ・ホップのビートに
エチオピアのリズムを接続させているところに、リジ・ミケルの個性が光っています。

86年アディス・アベバ生まれのリジ・ミケル、愛称ファフは、
高校卒業後にIT業界で働き、その後音楽業界に転身したというラッパー。
多くのステージ経験を積んで、MCとしてエンタテイナーの素養を磨き、
エチオピア音楽とヒップ・ホップを融合させたユニークなスタイルで人気という評判も、
デビュー作を聴くかぎり、あまりピンとこなかったのが正直なところでしたけれど、
2作目でその個性を如何なく発揮しましたね。

エチオ・ヒップ・ホップの記念碑となる作品の登場に、拍手です。

Lij Michael (Faf) "ATGEBAM ALUGN" Queen’s no number (2021)
Lij Michale (Faf) "ZARE YIHUN NEGE" Adika no number (2015)
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再開したエチオピアのオンライン・ショップから届いたCD メセル・ファンタフン [東アフリカ]

Meselu Fantahun.jpg

COVID-19禍の影響か、エチオピアのオンライン・ショップが開店休業になってしまって
困っていたんですけれど、ようやく再開したようで、良かった、良かった。
さっそく新たにラインアップされた4アイテムを入手しました。

まずはじめに紹介するのは、オムニバスで見かけたことはあるけれど、
ソロ・アルバムは初めて手にした、エチオピアの伝統派シンガー、
メセル・ファンタフンの新作です。

少しハスキーな、独特の声質を生かしたシャープな歌いっぷりが胸をすきます。
耳残りするこの個性的な声に、まず耳を奪われますよ。
こぶし使いも申し分なく、相応のキャリアを経た歌声であることは疑いないですね。

バックは、エチオピア国内制作の打ち込みとシンセをベースにしたプロダクションですが、
ハチロクのアムハラのビートがキビキビとしていて、
ドラムスやホーンズが生でないウラミはさほど感じないでしょう。
曲調に合わせて、サンプルの手拍子を効果的に配したり、
さりげなくレゲトンのリズムを借用したりしていて、ビートメイクに工夫がみられます。

アレンジで珍しいなと思ったのは、ホーンのラインをギターが弾いている曲があったり、
ギターのアルペジオで始まる曲があること。シンセ中心のサウンドのなかで、
こういう曲が出てくると、ピリッと引き締まりますね。
ギターのリズム・カッティングやベースが、ファンクぽいニュアンスを生み出していたり、
モダンなサウンドがエチオピア民俗色濃い曲に、よく馴染んでします。

Meselu Fantahun "ATISHISHI JEMBER" Awtar no number (2021)
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政権党の専属バンドから国民的バンドへ カトル・マルス [東アフリカ]

4 Mars.jpg

昨年オスティナートが出したジブチのグループRTDは、
世界中で高く評価されましたね。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-06-22

ワールド・ミュージック関連作の評価って、日本、アメリカ、
イギリス、フランス、ドイツと、国ごとにけっこう分かれるものなんですが、
グループRTDのアルバムは、どこの国の2020年ベスト・アルバムにも
ノミネートされていました。これって、案外珍しいことであります。

さて、その絶賛されたオスティナートの仕事ですけれど、
グループRTDの世界デビュー作を制作するきっかけとなった、
ヴィック・ソーホニーはじめオスティナートのスタッフが、
国営ラジオ放送局のアーカイヴの使用許可を得て編集作業を進めていた
リイシュー作が、ついに完成しました。

それが、カトル・マルスの82~94年録音13曲をまとめた本作です。
カトル・マルスは、70~80年代のソマリアの音源を復刻した
“SWEET AS BROKEN DATES: LOST SOMALI TAPES FROM THE HORN OF AFRICA”
にも1曲収録されていました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2017-09-10
その曲‘Na Daadihi’ は、音頭とレゲエをミックスしたようなリズムに、
サックスが泣きのリフを入れるスーダンふうの曲で、ぴよぴよと鳴らされるシンセに、
思わずクスクス笑いしてしまう、ファニーなナンバーでした。

カトル・マルスは、79年にジブチが独立して一党独裁を敷いた、
進歩人民連合(RPP)の専属バンドで、党の文化部門を代表していました。
グループ名の「3月4日」とは、進歩人民連合が創立された記念日を意味し、
ジブチ人民宮殿で誕生したそうです。40人ものメンバーを擁し、
バンドというより、俳優、歌手、ダンサー、ミュージシャン、
伝統音楽の打楽器奏者などの集合体で、オリンピック代表団のようなものと、
解説には書かれています。

メンバーは全員公務員で、ギネア独立時にセク・トゥーレが組織した、
国立シリ・オーケストラと同じようなものだったようですね。
私営のバンドは存在せず、ほかの政党も専属バンドを持っていたそうですが、
一党支配の政権党の資金力は、他を圧倒していました。
その後、93年の新憲法制定による複数政党制導入で、
政党直轄の音楽バンドは廃止され、真に国民的なバンドへと変わったそうです。

収録された曲を聴いてすぐにわかるのは、スーダン音楽の影響大だということ。
メロディやサックスのリフなどは、スーダニーズ・マンボを彷彿とさせます。
リズム面ではレゲエを援用していて、これはソマリの伝統リズム、ダーントが
レゲエと同じオフ・ビートで、非常によく似ているからだそうです。
‘Hobalayeey Nabadu!’ では、ナイヤビンギのパーカッションまで参照して、
ダーントではない本格的なレゲエに仕上げていますね。
ほかには、エジプトやイエメンのリズムを取り入れているとのこと。
行進曲ふうのリズムの曲‘Lama Rabeen Karo’ は、軍楽ぽいですね。

ヴォーカルはボリウッドの影響が大きく、
シンセのメロディはトルコのアナドル・ロックを参考にしているというのも、
なるほどとうなずけます。サイケデリックなエレキ・ギターも同様かな。
いずれにせよ、これが82~94年録音とは思えぬイナタさで、
20年以上時計の針を戻したような濃密なサウンドに、圧倒されます。

4 Mars "SUPER SOMALI SOUNDS FROM THE GULF OF TADJOURA" Ostinato OSTCD010
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東アフリカ沿岸のナイトクラブに流れたターラブ [東アフリカ]

Zanzibara 10.jpg

大衆ターラブの濃厚な味わいを堪能できる編集作の登場です。

「大衆」という言葉を付けてわざわざ呼んでみたのは、
カルチャー・ミュージカル・クラブや
イクファニ・サファー・ミュージカル・クラブといった、
共同体音楽の性格をもった冠婚葬祭向けのターラブではなく、
ナイトクラブなどで演奏された、大衆歌謡のターラブ集だからです。
たとえて言うなら、エスコ-ラ・ジ・サンバと、
マランドロたちが巣食うリオ下町のサンバの違いでしょうかね。

Black Star& Lucky Musical Club.jpg

89年に出たアフリカン・ポップス名盤中の名盤“NYOTA” を愛した人なら、
とりこになることウケアイの編集盤ですよ。
べちゃっとつぶれた声の女性歌手が歌う、
クサやの干物みたいなターラブの旨みなんて、もう最高です。
“NYOTA” はタンザニアの港町タンガで活躍した
二つのターラブ・バンドを編集したアルバムでしたけれど、
本作はケニヤのモンバサで活躍したターラブ・バンドも含めて編集されています。

Zanzibara 2  L’ÂGE D’OR DU TAARAB DE MOMBASA.jpg

モンバサのバンドは、本作と同じザンジバラ・シリーズの第2集
“L’ÂGE D’OR DU TAARAB DE MOMBASA 1965-1975” に収録されていた
マタノ・ジュマ率いるモーニング・スターや、ズフラ・スワレー、
ゼイン・ミュージカル・パーティなどの面々で、
第2集以降の90年までに残した録音を聴くことができます。
タンガの猥雑なスワヒリ演歌に比べ、モンバサはオルガンやドラムスを加えて、
サイケやファンキーなセンスもみせたのが特徴ですね。

Maulidi & Musical Party.jpg   Zein Musical Party  MTINDO WA MOMBASA.jpg
Zuhura Swaleh Jino La Pembe.jpg   Malika  Tarabu.jpg

ここに収録されたマウリディ・ミュージカル・パーティ、ゼイン・ミュージカル・パーティ、
ズフラ・スワレー、マリカは、ターラブが本格的に世界へ紹介された
80年代末から90年代初めにかけて(マリカだけは97年)、新録音も出ました。
これらのアルバムすべてで制作に関わってきたのが、
東アフリカ音楽研究家のウェルナー・グレブナーです。

エチオピア音楽を世界に紹介したフランシス・ファルセトほどには
知られていないウェルナーですけれど、グローブスタイルに残した一連のターラブ作や、
ブダの「ザンジバラ」シリーズで残してきた仕事は、ファルセトを凌ぐ広さと深さがあり、
コウベを垂れるほかないというか、足を向けて寝られませんね。

Shakila & Black Star, Zuhura & Party, Zein Musical Party, Malika & Party, Ali Mkali & Sta Mvita and others
"ZANZIBARA 10: FIRST MODERN: TAARAB VIBES FROM MOMBASA & TANGA / 1970-1990" Buda Musique 860354
Black Star & Lucky Star Musical Clubs "NYOTA" GlobeStyle CDORB044
Matano Juma & Morning Star Orchestra, Yasseen & Party, Zuhura & Party, Zein Musical Party, Bin Brek and others
"ZANZIBARA 2: L’ÂGE D’OR DU TAARAB DE MOMBASA 1965-1975" Buda Musique 860119
Maulidi & Musical Party "MOMBASA WEDDING SPECIAL" GlobeStyle CDORBD058 (1990)
Zein Musical Party "THE STYLE OF MOMBASA" GlobeStyle CDORBD066 (1990)
Zuhura Swaleh with Maulidi Musical Party "JINO LA PEMBE" GlobeStyle CDORBD075 (1992)
Malika "TARABU" Shanachie 64089 (1997)
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蘇ったアヤリュウ・メスフィン&ブラック・ライオン・バンド [東アフリカ]

Ayalew Mesfin  GOOD ADEREGECHEGN.jpgAyalew Mesfin  CHE BELOW.jpgAyalew Mesfin  TEWEDIJE LIMUT.jpg

うぉう、すごいな、これ。
エチオピア音楽の黄金時代である70年代に活躍した歌手、
アヤリュウ・メスフィンの往時の全録音が復刻!

以前ナウ=アゲンがアヤリュウ・メスフィンの単独復刻を実現した時は、
LPと配信のみのリリースで、CDが出ずに地団太を踏んだので、
今回の3CD化は感涙ものです。
ただし、5枚組で出たLPの方は、美麗ボックス入りなのに、
CDは3枚バラで、LPに付属されているブックレットもなし。

スッキリしない感は残るものの、
フランシス・ファルセトの『エチオピーク』」シリーズ以外から、
黄金期のエチオピア音楽が復刻されたことは、まずは歓迎すべきこと。
この時代の歌手で、これだけの曲数が復刻されたのは、
マハムード・アハメッドしかいなかったんだから、こりゃあ快挙ですよ。

40年代にエチオピア北部のウェルディヤで生まれたアヤリュウ・メスフィンは、
幼い頃から歌手になるのを夢見て、11歳の時、
反対する父親に背を向け、アディス・アベバへと向かいます。
レストランのドアボーイなどの下働きをしながら歌手の道を目指すも、
なかなかうまくいかず、軍隊に入隊して軍隊生活なども経験しながら、
ゲタチュウ・カッサのソウル・エコ・バンドに雇われるチャンスを得て、プロとなりました。

歌手活動の一方、24歳で自分のミュージック・ショップを開き、
レコードや楽器、サウンド・システムを販売し、
スウィンギング・アディス時代のミュージック・シーンを先導する人物になりました。
当時店で販売していたレコードのリストを見ると、アレサ・フランクリン、サム・クック、
ジェイムズ・ブラウン、ジミ・ヘンドリックスなどに加え、
スーダンのサイード・ハリファや、フェラ・クティの名前もあるところが興味深いですね。

そして、73年に自己のバンド、ブラック・ライオン・バンドを結成し、
ジェイムズ・ブラウンばりのダンス・パフォーマンスで一気に人気を高め、
国内各地での公演によって大成功を収めます。
しかし、転機が訪れるのは、74年9月の革命によって誕生したメンギスツ政権でした。
知識人の虐殺など、独裁色を強めるメンギスツの抑圧に、
歌でレジスタンスする覚悟を決めたメスフィンは、ダブル・ミーニングの歌詞で
メンギスツに辛辣な批判を加える歌を、矢継ぎ早に録音し発表しました。

その結果、メスフィンは逮捕され、3か月間の獄中生活を送ることとなります。
メスフィンのレコードは放送禁止となるばかりでなく、
販売することも、歌うことも禁止となり、
さらに13年に及ぶ軟禁生活を送ることとなり、音楽家生命を絶たれてしまうのでした。
しかし当時の政権の残虐さをよく知るアヤリュウに言わせれば、
わずか3か月で釈放されたのは幸運で、その理由はいまもわからないそうです。

91年のメンギスツ政権崩壊によって軟禁生活を解かれると、
メスフィンは音楽活動を再スタートさせ、音楽シーンにカムバックを果たし、
98年にはアメリカに渡り、はじめはミネソタ、西海岸、最後にデンバーへ落ち着きました。

今回復刻された録音データの詳細は、LP解説に明らかにされていませんが、
73年からわずか4年くらいの間にアムハやカイファに録音されたもので、
未発表の音源もあるらしく、それらが含まれているのかどうかは不明です。

あらためて全録音を聴いて思ったのは、フランシス・ファルセトの耳の確かさです。
ファルセトが『エチオピ-ク』シリーズで、メスフィンの曲を最初に復刻した
第8集収録の1曲‘Hasabe’ は、メスフィンのシグネチャー・ソングとなった代表曲で、
今回のアンソロジーでもトップを飾っています。
管楽器の代わりに、サイケデリックなファズ・ギターをフィーチャーしたこの曲は、
ジェイムズ・ブラウンなどのソウルばかりでなく、ジミ・ヘンドリックスにも影響を受けた
メスフィンならではの個性を発揮した曲でした。

ファルセトがメスフィンを高く評価していたことは、
『エチオピーク』をスタートさせる前に手がけたエチオピア音楽のコンピレ
“ETHIOPIAN GROOVE: The Golden Seventies” に、メスフィンの曲を3曲も
選曲していることからもわかります。
このコンピレは、のちに『エチオピーク』第13集として再発売されました
(ただし、アスター・アウェケの3曲は権利関係がクリアできず、カットされています)。
このほかメスフィンの曲は、第24集でも5曲が復刻されています。

80近いメスフィンは、現在もデンバーで血気盛んに暮らしており、
デボ・バンドをバックに演奏活動も行っているとのこと。
自身がマスターテープを所有していたことから実現できた、奇跡的な復刻です。

Ayalew Mesfin "GOOD ADEREGECHEGN (BLINDSIDED BY LOVE)" Now-Again NA5191
Ayalew Mesfin "CHE BELOW (MARCH FORWARD)" Now-Again NA5192
Ayalew Mesfin "TEWEDIJE LIMUT (LET ME DIE LOVED)" Now-Again NA5194
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