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修道女の人生に寄り添ったピアノ エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブル [東アフリカ]

Emahoy Tsegé Mariam Guèbru  THE VISIONARY.jpg   Emahoy Tsege-Mariam Gebru  JERUSALEM.jpg

エチオピアの修道女ピアニスト/作曲家、
エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブルに光が当たることなど想像もしなかっただけに、
ミシシッピ・レコーズのリイシューを契機とした再評価には、ちょっとびっくりしています。
旧来のエチオピア音楽という文脈からではなく、
新しいリスナーを獲得しているのは、この人の評価としてふさわしいですね。

06年にエチオピ-ク・シリーズの第21集で出た時には、
エチオピアにはこういう人もいるのかと驚きましたが、そのネオ・クラシカルなピアノは、
濃厚なエチオ・グルーヴを好むファンがスルーするのも、致し方無いところ。
ぼくは関心を持ってフォローしていたので、
12年にイスラエルで出たピアノ・ソロ・アルバムも聴いていましたが、
今となっては、それもちょっとしたレア盤となっていたようですね。

今回ミシシッピがその12年作から7曲、
72年の3作目から3曲を選曲した編集盤を出したんですが、
それを見てさすがに腹が立ち、書き残さずにはおれなくなりました。
批判記事をテーマにしないのが、当ブログのモットーなのではありますが。

ミシシッピの編集盤は、わずか10曲しかコンパイルしておらず、
収録時間35分11秒というケチくささなんですよ。
12年のピアノ・ソロ・アルバムは、全13曲収録時間60分33秒で、
72年に西ドイツで出た10インチ盤の全7曲を含め、
おそらく全曲をCD1枚に収録できたはずだっていうのに。
どうしてこんな中途半端な編集をする必要があるんですかね。

そもそもミシシッピが出したエマホイの2枚のLPも、
エチオピーク第21集の曲をバラして出しただけのこと。
エチオピークが廃盤になっているわけでもないのに、
こんな尻馬に乗ったLP出して、なんの意味があるんだとフンガイしていたんです。

以前からミシシッピのリイシューのやり口に反感いっぱいだったので、
今回もまたか!と怒りをおぼえた次第。
ついでに言うと、ぼくが『レコード・コレクターズ』にミシシッピのレコードを
けっして取り上げないのは、そういう理由からです。
(だからなのか、『ミュージック・マガジン』に書く人がいるけど)

LP時代からCD時代に移り、収録時間が延びたことで、
曲数多く復刻できるようになったというのに、
プレイリストの時代に移って、ヴァイナルに回帰する酔狂の挙句、
曲数を減らして出すって、どんだけバカなんですかね。
レアCDをリイシューするのはたいへん結構だけど、
短縮化して出すレーベルって、根性曲がりすぎだろ。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

書いてるだけでもムカムカしてくるんで、もうこれくらいにして、
エマホイ・ツェゲ=マリアム・ゲブルの紹介をしましょう。
エチオピアのエリック・サティだとかドビュッシーなどと形容されるとおり、
エチオピア旋法(ティジータ、バティ、アンバセル、アンチホイェ)を
ほぼ感じさせない独自のピアノを弾くエマホイは、
アズマリに端を発するエチオピア音楽とは無縁の音楽家です。

近代エチオピアを代表する知識人として尊敬される文学者で政治家の
ケンティバ・ゲブル・デスタ(1855-1950頃)の娘として生まれた人ですからね。
エチオピアの下層民である音楽家とは、
天と地ほどにも違う上流階層の出身だったのです。
6歳で父が若き日に神学を修めたスイスへと渡り、女子寄宿学校でピアノを習い、
ヴァイオリンも学びます。63年にファースト・アルバムを録音したのも、
ハイレ・セラシエ1世のはからいがあったからなのでした。

しかしそうした身分に生まれたからこそ、エマホイの人生は、
挫折した運命と苦しみの代償の物語だったと、
フランシス・ファルセトは、エチオピーク第21集で語っています。
第二次イタリア・エチオピア戦争でアディス・アベバがイタリアに占領され、
1937年にエマホイとその家族は、イタリアのアシナラ島の収容所に送られ、
のちにナポリ近郊のメルコリアーノに強制送還されます。
戦後にようやく解放されると、エマホイはエジプトへ渡り、
カイロで再び音楽の勉強を始め、44年になってエチオピアへ帰還します。

しかし彼女は、エチオピアの上流社会の権力と陰謀に絶望してしまい、
信仰の生活を選び修道女となりますが、修道院での過酷な生活にも耐えられず、
アディス・アベバの孤児院で教える道を選び、再び音楽を始めるようになります。
そして67年に母親とともにエルサレムへ渡り、エチオピア正教会の事務所で働きます。
72年に健康状態が悪化した母を看病するためにいったんエチオピアへ戻り、
エチオピア正教会の総主教の秘書を2年間務めますが、
メンギスツの独裁下で宗教迫害に耐え兼ね、
84年にエルサレムのエチオピア修道院へと戻って、
今年の3月26日、99歳で亡くなるその日まで過ごしました。

苦難と孤立の道を歩み、運命に翻弄された彼女のピアノには、
その音楽がどのようにして生まれたのか知らぬ者をも胸打つ響きがあります。
それが、エチオピア音楽という枠外で人を魅了するようになったゆえんでしょう。

Emahoy Tsegé Mariam Guèbru "THE VISIONARY" no label no number (2012)
Emahoy Tsege-Mariam Gebru "JERUSALEM" Mississippi MRI200
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