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ビクツィでロックして世界の舞台へ レ・テット・ブリューレ [中部アフリカ]

Les Têtes Brûlées  MAN NO RUN.jpg   Les Têtes Brulées  Bleu Caraïbes.jpg

オウサム・テープス・フロム・アフリカのリイシューに触発されて、
ひさしぶりにザンジバル在籍時のレ・テット・ブリューレを聴き直してみました。
レ・テット・ブリューレは90年12月に来日していますけれど、
すでにザンジバルが亡くなった後でしたね。
残念ながらそのとき自分はタンザニアにいたので、
ライヴを観ることはできなかったんですが。

当時はまだビクツィという音楽じたいを知らずに聞いていたので、
レ・テット・ブリューレがいかに革新的なバンドだったのかに気付けたのは、
ずいぶんあとになってからのことです。
来日当時「アフリカのフィッシュボーン」という
アフロ・パンクのイメージで受け止められたのも、
顔や腕や足に白いボディ・ペイントを施し、頭の半分を剃ったヘア・スタイルで、
色とりどりの破れた服にバックパックを背負ったいで立ちによるものでしたね。

こうしたステージ衣装を考案したのが、
バンド・リーダーのジャン=マリー・アハンダです。
ジャーナリスト出身のアハンダは、バンド結成にあたって明確なコンセプトを持っていて、
ベティ人だけのものだったビクツィという音楽をカメルーン全国に広め、
さらにビクツィ・ロックで世界の舞台に躍り出ようという野心を持っていたのでした。

リード・ギタリストのザンジバルのカリスマティックな才能を早くから見抜き、
ステージではザンジバルを中央に立たせてギターとダンスの司令塔を演じさせ、
アハンダ自身はステージの端に位置して、ヨーロッパの観客を沸かせました。
ランスロー=フォティから出した87年のデビュー作
“REVELATION TELE-PODIUM 87” でも、
「ザンジバルとレ・テット・ブリューレ」という名義だったほどです。

このデビュー作のA面全部を占めた ‘Essingan’ は、
ザンジバルがベティ人の伝承曲をアレンジした曲で、
レ・テット・ブリューレ初のヒットとなりました。
レ・テット・ブリューレが88年にヨーロッパをツアーした時に撮られたドキュメンタリー
“MAN NO RUN”(クレール・ドニ監督)のサウンドトラックで、
‘Essingan’ の短尺ヴァージョンを聴くことができます。

ちなみにドキュメンタリー映画 “MAN NO RUN” は、彼らのツアーに同行して
カメラを回しただけの内容のない映画で、観るべきものはないんですが、
サウンドトラックの方は、ライヴ感たっぷりの小気味いいビクツィが楽しめます。
生前時のザンジバルのプレイが聞けるインターナショナル盤は、
このサウンドトラックと、ザンジバルの死後に出た
ブルー・キャライブ盤の2枚しかないんですよね。
世界デビュー前のランスロー=フォティ盤2作もCD化してくれないかなあ。

Les Têtes Brûlées "MAN NO RUN" Milan CDCH360 (1989)
Les Têtes Brulées "LES TÊTES BRULÉES" Bleu Caraïbes 82803-2 (1990)
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