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ポスト・アパルヘイト時代のジャズの担い手 アンディレ・イェナナ [南部アフリカ]

Andile Yenana  WHO’S GOT THE MAP.jpg

マッコイ・ムルバタのアルバムを聴いていて、
アンディレ・イェナナのピアノがすごく良くって、
たしかソロ作を持っていたよなあと、棚をゴソゴソ。
あった、あった、07年作の“WHO’S GOT THE MAP?”。

正直なところ、中身をぜんぜん覚えていなくて、
あらためて聴いてみたら、こんな秀作だったとは、オドロキ。
トランペット、サックス、ベース、ドラムス、パーカッションのセクステット。
セロニアス・モンクの影響をうかがわせる楽曲に、
トーン・クラスターを多用するところも、もろにモンク。
同時代性のコンテンポラリーなジャズのなかに、
しっかりと南ア・ジャズの伝統が息づいていることがわかる演奏で、
しなやかな柔軟性をうかがわせるところに、新しい南ア世代の息吹を感じます。

すっかり感じ入ってしまって、ほかにどんなアルバムが出ているのかチェックしてみたら、
このアルバムと、02年に出た初ソロ作の2枚しかないんですね。
昨年、デジタル・リリースでビッグ・バンドとの共演作を出したようなんですが、
リーダー作の少ない人なんだなあ。
そのわりには、あちこちでアンディレ・イェナナの名は目にするよねぇ。
この夏に出たトゥミ・モゴロシの新作にも参加していたし。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2022-08-21

Zim Ngqawana  ZIMOLOGY.jpg   Zim Ngqawana  ZIMPHONIC SUITES.jpg
Mahube Music From Southern Africa.jpg   Louis Mhlanga  SHAMWARI.jpg

サックス奏者ジム・ンガワナと長く一緒に活動して、
ジム・ンガワナの代表作に名を残したほか、
サックス奏者スティーヴ・ダイアーが企画した南部アフリカ音楽プロジェクト、
マフベの一員でしたね。マフベには、オリヴァー・ムトゥクジも参加していたんだよな。
ほかに、南アにやってきて名声を得たジンバブウェ人ギタリスト、
ルイス・ムランガの名作“SHAMWARI” でも、サウンド・メイキングの要を担っていたし、
以前取り上げたベース奏者、ムルンギシ・ゲガナのアルバムにも参加しています。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2016-08-30

本作を数回聴いただけで、棚にしまっちゃった理由も、今としては良く分かるな。
アブドゥラー・イブラヒム世代のゴリゴリの南ア・ジャズと比べて、
南ア色が薄まったように思えて、当時は物足りなく感じたんでしょう。
アンディレ・イェナナは、68年東ケープ州キング・ウィリアムズ・タウン、
現在のコンエの生まれ。この世代の南ア・ジャズの音楽家は、
先達の伝統を引き継ぎつつも、コンテンポラリー色を強めて、
自分たちの世代の洗練されたグローバルなジャズを目指していたんですよね。

アパルトヘイトが撤廃された94年に、南アで設立されたインディ・レーベル、
シアー・サウンドもまた、そうしたポスト・アパルヘイト時代に向けて
新しいジャズを後押ししていたことが、今となってはよく理解することができます。

なめらかなピアノの音色の美しさを聞かせるソロ・ピアノに、
この世代ならではのしなやかさを感じます。

Andile Yenana "WHO’S GOT THE MAP?" Sheer Sound SSCD120 (2007)
Zim Ngqawana "ZIMOLOGY" Sheer Sound SSCD038 (1998)
Zim Ngqawana "ZIMPHONIC SUITES" Sheer Sound SSCD072 (2001)
Mahube "MUSIC FROM SOUTHERN AFRICA" Sheer Sound CHRSS75010 (1998)
Louis Mhlanga "SHAMWARI" Sheer Sound SSCD074 (2001)
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南ア・ジャズを活況へ繋いだ世代 マッコイ・ムルバタ [南部アフリカ]

McCoy Mrubata  HOELYKIT.jpg

たんまり旧作南ア盤を入手したので、今回もその話題。
サックス奏者マッコイ・ムルバタの00年作であります。
以前、この人のブラスカップ・セッションを取り上げたことがありました。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2016-10-01
セッション第2作は、マラービをリヴァイヴァルさせたトラックがあるなど、
古き南ア音楽に回帰した意欲的な快作で、愛聴しました。

本作はそれよりも古い作品で、
サックス奏者マッコイ・ムルバタの魅力を全面に出したアルバム。
アルト、テナー、ソプラノ、サクセロ、フルートを、曲によって吹き分けています。
タイトル曲の1曲目 ‘Hoelykit?’ は、なんとスティールパンをフィーチャーしたカリプソ。
南ア・ジャズと思いきや、いきなりハッピーな、
ナベサダの「カリフォルニア・シャワー」みたいな曲が飛び出して、意表を突かれます。

おかげで、いきなり肩の力が抜けて、リラックスしちゃいましたけれど
2曲目からは、アンディル・イェナナ(p)、ハービー・ツォエリ(b)、
マラボ・モロジェレ(ds)を伴奏とする、王道の南ア・ジャズを聞かせてくれます。

キッピー・ムケーツィに捧げたバラード ‘Philan’ は、胸に迫るエレジー。
マッコイのフルートとフェヤ・ファクのフリューゲルホーンが、涙を誘います。
続く ‘Obsession’ のサクセロがつむぐ優しいメロディも、心に刺さるなあ。
ソウェト生まれのジャズ・ヴォーカリスト、
グロリア・ボスマンのポエットをフィーチャーした
‘Romeo & Alek Will Never Rhyme’ も、いい。
マッコイ・ムルバタが書く曲はどれも、歌ゴコロが溢れていますね。

もっともジャズ的スリルに富んだトラックは、8曲目の ‘Amasabekwelangeni’。
テナー・サックスをブロウしまくるソロといい、
アンディル・イェナナのピアノ・ソロといい、
最高のビバップを聞かせてくれます。

マッコイ・ムルバタは、ジモロジーで名を馳せた
サックス奏者ジム・ンガワナと同じ、59年生まれ。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2020-05-31
ジム・ンガワナは11年に亡くなってしまいましたけれど、
アパルトヘイト時代を生き抜いたこの世代の活躍があったからこそ、
現在の南ア・ジャズ・シーンの活況に繋がったのは、間違いないですね。

McCoy Mrubata "HOELYKIT?" Sheer Sound SSCD059 (2000)
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美しく尊いつぶやき ドロシー・マスーカ [南部アフリカ]

Dorothy Masuka  Nginje.jpg

2019年2月23日に亡くなった南アの名歌手、ドロシー・マスーカ。
亡くなる前年にアルバムを出していたのは知っていたんですけれど、
アパルトヘイトが撤廃されて、南アへ帰還してからの作品は、
声がもうぜんぜん出なくなっていて、このアルバムも聞かずじまいになっていました。

ラスト・アルバムなんだし、せっかくだから聴いておくかと、
まったく期待もせず買ってみて、ガクゼンとしちゃいました。
いやぁ、これは素晴らしいアルバムじゃないですか。声は衰えているんだけれど、
老いたドロシーに優しく寄り添う伴奏が素晴らしくて、聴き入ってしまいました。

ドロシー・マスーカは、1935年9月3日南ローデシア(現ジンバブエ)のブラワヨの生まれ。
母親が経営するレストランで、ツァバ・ツァバを歌って小銭稼ぎをしたのがはじまり。
16歳の時に学校のコンテストで歌ったところを、
トルバドール・レコードのタレント・スカウトに見染められ、
初録音したドロシーの自作曲 ‘Hamba Notsokolo’ が大ヒットを呼びます。
一躍人気歌手となったドロシーは、50年代にミリアム・マケーバと並んで活躍しました。
そんな黄金時代の53~60年録音をまとめたのが、“HAMBA NOTSOKOLO” で、
いまなおこれを凌ぐ編集盤はない、ドロシーの決定盤です。

Dorothy Masuka  Hamba Notsokolo.jpg   African Jazz Variety.jpg

54年にドロシーは、
アフリカン・ジャズ・アンド・ヴァラエティ・ショウに参加しています。
南ア黒人による初の演芸ショウを催したこの歌劇団は、国内を巡業して大人気を呼び、
ドロシーのほか女優のドリー・ラテーベなど、数多くのスターを輩出しました。
ドロシーは入っていませんけれど、この歌劇団の10インチ盤があります。

マケーバと同様に亡命生活を送っていたドロシーは、
92年に新生南アへ帰還後、音楽活動を再開しましたが、
その歌声に50年代の黄金時代の面影を聴き取ることは、できなくなっていました。

そんなわけで、カムバック後のドロシーに関心を持てなかったんですけれど、
スティーヴ・ダイアーがプロデュース、エンジニア、ミックスをしたこの遺作は、
ドロシーのソングライターとしての才能にスポットをあて、楽曲の良さを引き立てています。
生音を強調したシンプルな伴奏で、また、ドロシーの声の衰えが目立ないよう、
最大限に配慮したプロデュースをしているところに、
スティーヴ・ダイアーのドロシーに対する敬意の念がにじみ出ていますよ。
ちなみに、息子のボカニ・ダイアーも2曲で参加しています。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2016-11-22

あらためて思うのは、ドロシーが書いた楽曲の良さですね。
考えてみれば、10代で初レコーディングした時から、自作の曲を歌えたのって、
50年代当時としても、かなり画期的だったはず。
デビュー当初から、歌手だけでなく、作曲家としても評価されていた証拠でしょう。

マラービの時代を再現するかのように、サウンドがなめらかで、まろやか。
尖った音はまったく出てこなくて、隙間のある音づくりに、肩がほぐれます。
ドロシーがつぶやくように歌う ‘Manyere’ なんて、
往年のマラービらしい温かみたっぷりで、思わずほっこりしてしまいますよ。
スティーヴが吹くサックスの音色の優しいことといったら。
終盤のハービー・ツオエリのベース・ソロも聴きもの。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2016-11-24

パーカッションと控えめなアコーディオンとベースをバックに歌う
‘Mzilikazi’ は、寄せては返すゆったりとしたリズムで、
反復するメロディを歌うスピリチュアルな曲。
ドロシーの母方の祖母がサンゴマだったことと、関連がありそうな曲です。
同系統の曲では、ンビーラとパーカッションをバックに歌った ‘Kulala’ は、
スピリチュアルというより、子守唄のよう。

サックスのリフで始まる ‘Yombele Yombele’ は、
いかにもマラービらしいキャッチーなメロディで、ニンマリと頬がゆるみます。
ドロシーのシグニチャー・ソングとなった ‘Hamba Notsokolo’ も歌っていて、
イントロのアクースティック・ギターを聴いただけで、
ぱあっと満面の笑みになっちゃいました。

ドロシーのつぶやきヴォイスが、メロディの美しさを引き立てた遺作。
尊さすらおぼえる作品です。

Dorothy Masuka "NGINJE" Gallo CDGMP1802 (2018)
Dorothy Masuka "HAMBA NOTSOKOLO" Gallo CDZAC60
[10インチ] King Jeff and African Jazz Troupe, Ray Makelane, The Woody Woodpeckers, David Serame, Barbara Thomas, Sonny Pillay, Ben (Satch) Masinga "AFRICAN JAZZ AND VARIETY" South African Institute of Race Relations PR4 (1952)
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変名で出たマヴテラのハウス・バンド マッコネ・ゾンケ・バンド [南部アフリカ]

Makhona Zonke Band  THE WEBB.jpg

うわぁ、これ、CDが出てたのか!
めっちゃ嬉しい南ア盤CDを手に入れちゃいました。マッコネ・ゾンケ・バンドの76年作。
07年にCDリイシューされていたとは意外。
この当時、南アのガロは、「ジ・アーリー・イヤーズ」シリーズで、
旧いカタログを精力的にCDリイシューしていましたけれど、
本作はそのシリーズと関係なく単独CD化したものらしく、気付きませんでしたよ。

で、そのマッコネ・ゾンケ・バンド、そんなバンド、聞いたことないという人でも、
カンのいい南ア音楽ファンなら、ピンとくるんじゃないかな。
そうです。かのマッゴナ・ツォホレ・バンドの変名バンドなんですよ。

マッゴナ・ツォホレ・バンドは、マハラティーニとマホテーラ・クイーンズの
バック・バンドとして世界的に有名になりましたけれど、
もとはといえば、ガロが64年に黒人音楽部門を独立させて作った音楽会社、
マヴテラ・ミュージック・カンパニーのハウス・バンドだったのでした。
いわば、モータウンにおけるファンク・ブラザーズと同じね。

ソト語で「なんでもできるバンド」と名付けられたメンバーは、
アルト・サックスのウェスト・ンコーシ、ベースのジョゼフ・マクウェラ、
リード・ギターのマークス・マンクワネ、リズム・ギターのヴィヴィアン・ングバネ、
ドラムスのラッキー・モナマの5人。

裏方ゆえに、バンド名義のアルバムは数少なく、
64年に結成してから、67年の“LET'S MOVE WITH MAKHONA TSOHLE BAND”
の一枚があるのみで(このアルバムでは、 Maghona ではなく、 Makhona だった)、
70年代のアルバムでは、今回見つけた76年の変名バンドの名義作のほかは、
2年前にイギリスでLPリイシューされたオムニバスの体裁で出た、
70年の“MAKGONA TSOHLE REGGI” があるのみだったのです。

“MAKGONA TSOHLE REGGI” はオムニバスで、
マッゴナ・ツォホレ・バンド名義は4曲のみ。
さすが「なんでもできるバンド」で、スカやレゲエもやっていますよ。
他はマッゴナ・ツォホレのメンバーによる、ソロ・プロジェクトのバンドの曲で、
マッゴナ・ツォホレ・ファミリーのアルバムといえるかもしれません。

もっとも、67年作の“LET'S MOVE WITH MAKHONA TSOHLE BAND” でも、
曲ごとにマークス・マンクワネ&ヒズ・バンドだとか、
ジョゼフ・マクウェラ&ヒズ・コマンダーズとか書かれていて、
マッコナ・ツォホレ・バンドの名前は、アルバム・タイトルだけだったんですよね。
ここらへんは、南ア音楽業界の慣習みたいなものなんだろうなあ。

さて、今回見つけた変名バンドの76年作は、
マッゴナ・ツォホレ・バンドの5人に加え、オルガンのキッド・モンチョと、
テナー・サックスのロジャー・シェズ、アルト・サックスのティースプーン・ンデルに、
ヴォーカリスト3人が参加して制作されたアルバム。
管楽器がウェスト・ンコーシ一人でなく、
3管となったおかげで音の厚みがグッと増して、アーシーなサウンドを堪能できます。

このアルバムの1年後の77年に、マヴテラのプロデューサー、
ルパート・ボパペが脳卒中で倒れて音楽業界から引退してしまい、
マッゴナ・ツォホレ・バンドは解散してしまいました。
本作は解散直前の作品だったわけですが、
70年代のンバクァンガ・サウンドが詰まった名盤といえます。

Makgona Tsohle Band  MATHAKA.jpg   Makgona Tsohle Band  MATHAKA VOL.2.jpg

ちなみに、その後マッゴナ・ツォホレ・バンドは、
83年にテレビのミュージカル・コメディー番組出演のため再結成します。
『ポップ・アフリカ800』では、この再結成後の大ヒット作
“MATHAKA VOL.1” を選んだんですが、このアルバムは、
60~70年代のンバクァンガ黄金時代のヒット曲を再演したもので、
じっさいのテレビ番組では、放送されなかったようです。
83年11月28日に “MATHAKA VOL.1” 発売後、テレビ番組で放送された曲を
収録した “KOTOPO VOL.2” が同年12月5日に出ました。
(CDは “MATHAKA VOL.2” と改題)

この2作は、60年代とも70年代とも違う、
80年代のンバクァンガ・サウンドが楽しめるのがキモ。
マッゴナ・ツォホレ・バンド不在によって、ンバクァンガの人気が衰え、
ソウル/ディスコのバブルガム全盛となっていた時代ですけれど、
リズム・セクションがソリッドになり、リードとリズム・ギターの絡みに
ニュアンスが深まった、80年代ならではのマッゴナ・ツォホレの良さが溢れ出ています。

この2作も、ガロの「ジ・アーリー・イヤーズ」で07年にCD化していたんですが、
同じ年に70年代のマッゴナ・ツォホレを代表する本作も、CD化していたのですね。

Makhone Zonke Band "THE WEBB" Gallo CDBL73(FFN) (1976)
The Makgona Tsohle Band "MATHAKA VOL.1" Spades/Gallo CDGB71 (1983)
The Makgona Tsohle Band "MATHAKA VOL.2" Spades/Gallo CDGB72 (1983)
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蘇った19世紀末の南ア合唱団 [南部アフリカ]

Philip Miller & Thuthuka Sibisi  THE AFRICAN CHOIR 1891 RE-IMAGINED.jpg

5年前に、こんな面白いCDが出ていたんですねえ。
南アの作曲家フィリップ・ミラーとトゥトゥカ・シビシが、
19世紀末の南ア合唱団の演奏を再現したプロジェクト。

本作はサウンド・インスタレーションとして企画され、
イングランド芸術評議会の後援を受けた学芸員調査を経て、
16年にロンドンで初公開されています。
その後ケープ・タウンでレコーディングされた本CDが17年に制作され、
ケープ・タウンを皮切りに、ジョハネスバーグの博物館やギャラリーを巡回しました。

展覧会で展示された肖像写真は、125年以上にわたって未公開だったもので、
ヴィクトリア朝の大英帝国におけるアフリカ人シッターを捉えた写真コレクションとして、
もっとも包括的な作品群だったそうです。
展覧会では15枚の大型ポートレートが展示され、
ミラーとシビシが新たに作編曲した本CDの5曲が、
会場のサラウンド・システムでループ再生されました。

さて、その合唱団はというと、
1891年から1893年にかけてイギリスとアメリカを巡業した、
南アフリカ共和国の若い男女14名と子供2名からなるグループで、
表向きはケープ・コーストに技術専門学校を建設し、
拡大する黒人労働力を支援するための資金調達が目的だったとのこと。
ウォルター・レティとジョン・バルマーがキンバリーでリクルートしたメンバーは、
いずれも教養のある敬虔なキリスト教徒で、
なかにはグラスゴー宣教師協会が東ケープ州に設立した
宣教師学校のラブデール・カレッジを卒業した者も何人かいたそう。

イギリスへ渡った彼らは、
クリスタル・パレスでイギリスの貴族や政治家のために合唱を披露し、
ワイト島のオズボーン・ハウスでは、ヴィクトリア女王のために演奏し、
大喝采を浴びたそうです。
彼らのステージのレパートリーは、英語で歌われるキリスト教の賛美歌と、
大衆的なオペラのアリアやコーラス、そしてアフリカの伝統的な賛美歌で
構成されていました。アフリカの伝統的な衣装と、
ヴィクトリア朝の衣装それぞれをまとって登場したそうです。

The African Choir 3.jpg
The African Choir 1.jpgThe African Choir 2.jpg

アフリカの伝統衣装を身にまとった写真がジャケットに飾られていますが、
これは、当時の新聞に使われた写真がノー・トリミングで載せられたものです。
それがわかったのは、“BLACK EUROPE” 所収の図鑑にあったからなのでした。
図鑑第1巻の1ページ目には、彼らの写真が飾られているばかりでなく、
当該の新聞記事やコンサート・プログラムの表紙も載っていました。
彼らの録音が残されず、聴くことがかなわないのは残念なんですが。
(図版は、BLACK EUROPE by Jeffrey Green, Rainer E. Lotz and Howard Rye 
Bear Family Productions Ltd., 2013 より引用)

Black Europe.jpg

“BLACK EUROPE” は、
13年にベア・ファミリーが500部限定で制作した44枚組CDセットで、
1880年代から1920年代後半にかけてヨーロッパで活躍した、
世界各国の黒人政治家、パフォーマー、
俳優、エンターテイナーたちを詳細に表わした画像と
ドキュメントを収録した図鑑2巻を含む、前代未聞のコンピレーションでした。
本CDではジ・アフリカン・クワイアと表記されていますが、
“BLACK EUROPE” から引用した図版を見ると、ザ・サウス・アフリカン・クワイア、
ジ・アフリカン・ネイティヴ・クワイアなどの表記がみられます。

さて、本CDの内容ですけれど、1891年の夏にロンドンで行われた、
オリジナルのコンサート・プログラムに基づいて、ミラーとシビシが曲を作り直したもので、
厳密に当時のままではないとはいえ、当時の音楽性はしっかりと伝わってきます。
録音には、プロの合唱団のメンバーやオペラ歌手が14人集められました。
当時のレパートリーには、女王の前でも披露しただけあって、
‘God Save The Queen’ といった曲もありますが、
意外だったのは、南アの民俗色を強調したパフォーマンスもあったことです。

‘Footstomp’ がそれで、足踏みダンスのリズム曲はのちのンブーベでも聞かれる、
ズールーの合唱音楽には欠かせないパフォーマンスですね。
南ア・ポピュラー音楽史上初の重要作曲家で、
ミッション系合唱団を率いたルーベン・カルーザの30年代録音より、
南ア黒人色を明確に打ち出していることに、ちょっと驚きました。

合唱団のメンバーだったシャーロット・マクセケ(旧姓マニエ)とポール・シニウェは、
のちに南アフリカの社会活動家として活躍したといいます。
シャーロット・マニエは、1901年に27歳で
オハイオのウィルバーフォース大学も卒業していて、
この合唱団に参加してアメリカへ渡ったことが、大きな飛躍へと繋がったんでしょうね。

Philip Miller & Thuthuka Sibisi "THE AFRICAN CHOIR 1891 RE-IMAGINED" Autograph ABP/Tshisa Boys no number (2017)
v.a. "BLACK EUROPE: The Sounds And Images Of Black People In Europe Pre-1927" Bear Family BCD16095
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ロンドンのジャム・バンド エズラ・コレクティヴ [ブリテン諸島]

Ezra Collective  WHERE I’M MEANT TO BE.jpg   Ezra Collective  YOU CAN’T STEAL MY JOY.jpg

エズラ・コレクティヴって、ジャム・バンドなんじゃないのかなあ。
そんなこと誰も、言ってないんだけれども。
世間一般では、ロンドンの新世代ジャズ・バンドという紹介の仕方をされてますけど、
ジャズ・バンドという枠に閉じ込めちゃうと、
彼らの豊かな音楽性を狭めちゃうようで、もったいない気がするんですよね。

この曲はアフロビート、この曲はレゲエ、この曲はジャズ、この曲はネオ・ソウルと、
楽曲の性格ごとに演奏スタイルを使い分けているのが、彼らの流儀。
多彩な音楽要素をミックスするのではなく、軸となるスタイルをベースに、
グライム以降の新しいサウンドを練り込んでいくという手法で、
そこにジャズから学び取ったスキルを感じさせます。
ジャズ出身者らしい器用さといってしまえば、それまでだけど、
それが鼻につかないのが、彼らの良さ。

ヒップ・ホップは当然のこと、グライムなどのクラブ・カルチャーが血肉化している
ハイブリッドなセンスは、いかにもロンドンらしいバンドというか、
どうやっても、オシャレになっちゃうような。
19年のデビュー作も気持ちよくって、ずいぶん聴いたけれど、
記事にしたくなる意欲が湧かなかったのは、ヌビアン・ツイストと同じ理由かな。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2022-08-17
どうもスタイリッシュな音楽って、カッコいいだけで、心が入り込めないというか。

でも、新作で聞かせるリーダーのドラマー、フェミ・コレオソの
トニー・アレンをトレースしたドラミングには、降参しました。
前作でもアフロビート・ジャズを試みていたけれど、今作のは完成型。
さすがにこれは、素直に称賛しなくちゃいかんでしょう。
トニーへのリスペクトが、ちゃんと伝わってきますよ。
たしかこの人、トニー・アレンのドラム・レッスンを受けるために、
パリ通いもしたんだよね。

サンパ・ザ・グレート、コージー・ラディカル、ネイオをフィーチャーして、
コンパクトにまとめた曲が並んだ本作。
セロニアス・モンクのジャケットをパロっちゃうあたりのセンスも含めて、
どこまでもスマート&クールな連中であります。

Ezra Collective "WHERE I’M MEANT TO BE" Partisan/Knitting Factory PTKF3020-2 (2022)
Ezra Collective "YOU CAN’T STEAL MY JOY" Enter The Jungle ETJ006CD (2019)
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驚異のイラン式ピアノ モルタザー・マハジュビー [西アジア]

Morteza Mahjubi  SELECTED IMPROVISATIONS FROM GOLHA, PT. I.jpg   Morteza Mahjubi  SELECTED IMPROVISATIONS FROM GOLHA, PT. II.jpg

イランの現代の古典音楽、という言い方もヘンですけど、
あまりにも高度に芸術的になりすぎたキライがあって、
ほとんど興味がわかないんですよね。

トルコの古典音楽をやる若手音楽家たちのフレッシュな音楽性と比べて、
イランの古典音楽家は、どうも硬直的な印象が強いんだよなあ。
ECMなどの欧米経由で評価されるカイハン・カルホールや、
ムハンマド・モタメディといった人たちも、ぼくにはちっとも魅力を感じません。

というわけで、イランの古典音楽はヴィンテージものに限ると、
イランのマーフール文化芸術協会がリリースする復刻ものだけをフォローしてりゃあ、
それで十分と、ずっと思ってきたわけなんでした。
ところが、デス・イズ・ナット・ジ・エンドというロンドンの復刻専門レーベルから、
面白いヴィンテージものが出ているのに気付いて、おぉ!と嬉しくなっちゃったんです。

それが、イランのピアニスト、モルタザー・マハジュビーの2作。
この人のアルバムは、マーフール文化芸術協会からも2枚出ていましたけれど、
デス・イズ・ナット・ジ・エンドが復刻したのは、大英図書館がコレクションしていた、
イラン国営ラジオ放送の番組「ゴルハ(ペルシャの歌と詩の花)」の放送音源
847時間分のなかから編集したというアルバム。
第1集は昨年出ていたようで、今回出た第2集ではじめてその存在を知ったんですが、
これがどちらも絶品。

マーフール文化芸術協会のアルバムは曲が長尺でしたけれど、
こちらは2・3分前後の短いピアノ即興曲が中心で、
驚異的といえる、あまりに独特なイランのピアノの魅力を存分に味わえます。
ミャンマーの音階に調律し直されたミャンマー式ピアノのサンダヤーは、
その魅力が最近少しずつ知られるようになりましたけれど、
イランのピアノもスゴいんだぞー。
イラン音楽の旋法ダストガーを演奏するために、微分音調律されているんですね。
世界の不思議音楽好きなら、知らなきゃ損ですよ。

1900年にテヘランで生まれたモルタザー・マハジュビーは、
ネイ奏者の父とピアノ奏者の母という音楽一家に生まれ、
ヴァイオリンを演奏する兄とともに、幼い頃から高名な音楽家のもとでピアノ修行し、
神童として育った人です。
ちなみに、ここでは柘植元一のカナ読みに従い、
「モルテザー」でなく「モルタザー」と書いています。
65年に亡くなったので、残された録音はいずれも晩年のものですね。

指で鍵盤を弾いているはずなのに、サントゥールを叩く撥のメズラブで、
ピアノの弦を叩いているかのように聞こえるのが、いつ聴いてもナゾすぎます。
ピアノを聴いているのに、サントゥールのように聞こえるのが、不思議なんです。
こうしたサントゥールをピアノに置き換えた奏法を確立したのが、
モシル・ホマーユン(1885-1970)で、モシルについては、以前書きましたね。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-10-05

シュール、マーフール、ダシュティ、ホマーユン、アフシャーリーなど、
ダストガーのピアノ即興のほか、第2集には、トンバクやヴァイオリンに、
ポエトリーや歌が加わる曲もあるのが、聴きものとなっています。

Morteza Mahjubi "SELECTED IMPROVISATIONS FROM GOLHA, PT. I" Death Is Not The End DEATH048
Morteza Mahjubi "SELECTED IMPROVISATIONS FROM GOLHA, PT. II" Death Is Not The End DEATH053
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消えゆくタイ北部歌謡芸能、ソー [東南アジア]

あぁ、これだから世界の音楽探訪は、やめられない。
またひとつ、これまでまったく知ることのなかった音楽に、出会うことができました。
それが、タイ北部、ラーンナー地方の伝統的な祭儀で奏されてきたという、
ソーと呼ばれる歌謡。東北部のモーラムは有名ですけれど、
ソーは、もっと西のチェンマイやチェンライ、
ナーン県やランパーン県で伝わってきた、ムアンの人々の歌謡芸能とのこと。

一聴すると、男女が掛け合いで歌うスタイルは、
モーラムのラム・クローンによく似ているんですが、
モーラムはケーンが伴奏するのに対し、ソーの伴奏は、
サロー(胡弓)、スン(複弦2コースのリュート)、ピー(笛)が標準形のよう。

ちなみに、タイの胡弓を一般的にソーと呼びますけれど、
ここでいう歌謡のソーは、この楽器名とは関係なく、
ソーで伴奏される胡弓は、サローという名前なんですね。ややこしいんだけど。

今回この伝統的なソーが聞けるCDを3タイトル入手したんですが、
いずれも25分を超す長尺の2曲を収録。
歌謡だけでなく、語り物としての性格を併せ持つ芸能なのかもしれません。

Bunsii Rattanang, Lamjuan Muangphraao.jpg

なかでも、ソーの第一人者だという、
ブンシー・ラッタナン(1953-2021)のアルバムが素晴らしい。
ラムジュアン・ムアンプラーオという女性歌手と掛け合いで歌っているんですけれど、
鼻にかかったヴォーカルが、サロー、スン、ピーが奏でる1拍子リズムと絡み合って、
ふんわりとしたグルーヴを生み出し、得も言われぬ滋味な味わいが溢れ出すんですよ。

このリズム、面白いなあ。
強拍・弱拍のアクセントがなくて、どう聴いても1拍子にしか聞こえない。
歌や語りの調子によって、フリー・リズムに変わるようなパートもなく、
ずーっとおんなじテンポで曲が進んでいくんですけれど、
即興らしき歌いぶりにグイグイ引き込まれます。
二人が歌うメロディのヴァリエーションも豊かで、
定型ワン・パターンになりがちなラム・クローンと違って、
単調になる場面がぜんぜんありません。

ブンシー・ラッタナンは、
80年代にルークトゥン調のソーでヒット曲を出したこともあるそうで、
今回そんなルークトゥン・ソーのアルバムも1枚入っていました。
もっともそのような試みが盛んになることはなく、
ルークトゥン・モーラムのようにバンコクへ進出して、
タイ全国区の人気を得るまでには、至らなかったようですね。

Kampaai Nuping, Somporn Nongdaeng.jpg

ブンシー・ラッタナンよりも古い世代のカムパーイ・ヌピン(1924-2014)も、
ソーの大物歌手だそうです。歌手だけでなく舞踏の第一人者だそうで、
95年に舞踏の部門でタイ王国国家芸術家を授与されています。
相方の女性歌手は、ソムポーン・ノーンデーン。
ジャケットには、スンを弾く二人とサローの3人が写っていますが、
CDには太鼓とタンバリンのような打楽器のほか、
キム(ハンマー・ダルシマー)らしき音も聞けます。
2曲目の方ではゴングも聞こえ、代わりにキムはいないみたいですね。
キムの音色がまるで琉琴で、太鼓の細かいリズムといい、沖縄音楽と似ているのが不思議。
こちらはさきほどのブンシー・ラッタナンとは違い、リズムは4拍子です。
録音は前のブンシー・ラッタナンより古そうで、80年代頃のものかも。

Ai Gao, Ii Thuam.jpg

3枚目は男女二人が写っていて、ブーテン(小那覇舞天)を思わす男性がアイ・ガオ、
額に独特の文様を施している女性がイー・トゥアム。
歌謡漫談といった調子の二人の掛け合いは、かなり自由度の高い即興の要素が十分。
演奏が止まって、二人の漫談となるパートも長くあります。
ムアン語がわかればねえ、きっと楽しめるんだろうけれど。う~ん、残念です。
野外で録音されたものらしく、盛んに鳥の鳴き声が聞こえるのが、いい雰囲気。
ジャケットには、ピーを吹く二人とスンを弾く3人が写っていて、
ブンシー・ラッタナン同様、1拍子のリズムで楽しめます。

それにしても、モーラムがこれだけ知れ渡っているのに、
ソーをこれまでまったく知るチャンスがなかったというのも、なんとも不思議です。
ソーについて書かれた日本語テキストを探すも、ぜんぜんなくって、
船津和幸さん、船津恵美子さんという信州大学のお二人の先生が94年に発表された民族誌、
タイ民俗音楽フィールド・ノートー1-北部タイ・ラーンナー地方の歌謡芸能「ソー」が、
ゆいいつの資料と思われます。
https://core.ac.uk/download/pdf/148782705.pdf

欧米人が録音した民俗音楽のレコードはないのかしらんと、
フォークウェイズやオコラなどのカタログをチェックしてみたんですが、
見当たらないですねえ。オランダのパンから出ている
“CHANG SAW: VILLAGE MUSIC OF NORTHERN THAILAND” と
リリコードの“SILK, SPIRITS & SONG: MUSIC FROM NORTH THAILAND” に、
ソーらしき曲目があるくらい(未聴なので、不確かですが)。

どうやらモーラムとは事情がぜんぜん違い、ソーは消えゆく歌謡なのかもしれません。
ルークトゥン化も成功しなかったようだし、
ヒップ・ホップとミックスするような破天荒な若者でも現れれば、
新たな展開も期待できるんでしょうが。
カムパーイ・ヌピンやブンシー・ラッタナンといった古い世代がいなくなったあとは、
伝統保存の芸能として、細々と遺るだけのものとなってしまうのでしょうか。

Bunsii Rattanang, Lamjuan Muangphraao "SAW KHUN BAAN MAI" Sahakuang Heng CD013
Kampaai Nuping, Somporn Nongdaeng "SAW THAAM THONO PANHAA" Sahakuang Heng CD007
Ai Gao, Ii Thuam "SAW GEO NOK" Sahakuang Heng CD015
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青と白のサンバ学校の古参組 ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラ [ブラジル]

Velha Guarda Da Portela  MINHA VONTADE.jpg

15年7月22日、マドゥレイラ地区にあるポルテーラの本拠地、クアドラ(練習場)で、
ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラの無料コンサートが行われました。

テレーザ・クリスチーナ、クリスチーナ・ブアルキ、マリア・リタをゲストに迎えた
このコンサートはライヴ録音され、グループ50周年を記念して、
ゆいいつのオリジナル・メンバーとして残ったモナルコが、
87歳を迎えた誕生日の20年8月17日に、デジタル・リリースされました。
奇しくも8月17日は、ポルテーラの名作曲家カンデイアの誕生日でもある日。
そう、二人は同じ誕生日だったんですねえ。
カンデイアはモナルコより2つ年下でしたけれど、
78年に43歳の若さで亡くなってしまったのでした。

デジタル・リリースのあと、CDとDVDも追って発売の予定だったんですが、
待てど暮らせどリリースされず、2年遅れでようやくCDが発売されました。
その間にモナルコも亡くなってしまい、DVDはいまだリリースされず、遺憾千万です。
遅きに失したリリースに、文句の一つも言いたくなるわけですが、
CDを聴いてみれば、たちどころに笑顔になってしまうのでした。

場所は、ポルテーラの普段の練習場である体育館のような場所だから、
音がヌケまくって、音響の整ったコンサート会場とは、だいぶ違います。
でも、だからこそ、クアドラならではの臨場感にあふれ、
現場にいる気分になれるんですよね。
音楽監督は、86年のアルバムからずっと同じ、
伝統サンバ最高のアレンジャーの7弦ギタリスト、パウローンと、
モナルコの息子マウロ・ジニースの二人が担っています。

はや2曲目でモナルコが ‘Lenço’ を歌い、
この日のためにノカ・ダ・ポルテーラとモナルコが作った新曲 ‘Lindo’ や、
ベッチ・カルヴァーリョが80年の “SENTIMENNTO BRASILEIRO” で歌った
‘A Chuva Cai’ も、このメンバーで聞けるのが嬉しいですねえ。
このほかモナルコ・ファンとしては、ポルテーラの生みの親、
パウロ・ダ・ポルテーラが36年に作った ‘Cidade Mulher’ を歌ってくれたのが白眉。
クレジットをみると、このコンサートの4か月後の11月25日に、
88歳で亡くなったヴァルジール59の名前もあって、ジンときました。

A Velha Guarda Da Portela  PORTELA PASSADO DE GLÓRIA.jpg   Velha Guarda Da Portela  DOCE RECORDAÇÃO.jpg
Velha Guarda Da Portela  HOMENAGEM A PAULO DA PORTELA.jpg   Velha Guarda Da Portela  TUDO AZUL.jpg

パウリーニョ・ダ・ヴィオラの声掛けによって結成された
ヴェーリャ・グァルダ・ダ・ポルテーラのデビュー作が出たのが70年。
商業的な成功など望むべくもない伝統サンバの世界ゆえ、
2作目が出るのはその16年も後のこと。それも外国人の手によって制作されました。
ご存じのとおり、日本人の田中勝則さんによるお仕事です。
さらに田中さんは、89年にも彼らのアルバムを制作しました。
ここには発売時のLPでなく、のちにブラジルでCD化されたさいの写真を載せました。
ブラジルで彼らの名前が知れ渡るきっかけとなったのは、
マリーザ・モンチがプロデュースした00年のEMI盤があったからですね。
今回のライヴ盤はそれ以来となります。

せっかくの機会なので、手元にあるポルテーラゆかりのレコードも載せておきましょう。

Escola De Samba Da Portela A Vitoriosa.jpg   Abilio Martins E Zezinho Grandes Sussesos Da E.S. Portela.jpg
Gremio Recreativo Esola De Samba Da Portela.jpg   Coro Dos Compositores Da Portela  MINHA PORTELA QUERIDA  SAMBAS DE TERREIRO.jpg
HISTÓRIA DES ESCOLAS DE SAMBA - PORTELA.jpg

Velha Guarda Da Portela "MINHA VONTADE" Biscoito Fino BF468-2 (2022)
A Velha Guarda Da Portela "PORTELA PASSADO DE GLÓRIA" RGE 6049-2 (1970)
Velha Guarda Da Portela "DOCE RECORDAÇÃO" Nikita Music/Office Sanbinha 24.06.060-2 (1986)
Velha Guarda Da Portela "HOMENAGEM A PAULO DA PORTELA" Nikita Music/Office Sanbinha 24.06.368-2 (1989)
Velha Guarda Da Portela "TUDO AZUL" Phonomotor/EMI 525335-2 (2000)
[LP] Escola De Samba Da Portela "A VITORIOSA" Sinter SLP1718 (1957)
[LP] Abilio Martins e Zezinho "GRANDES SUCESSOS DA E.S. PORTELA" Copacabana CLP11287 (1962)
[LP] Escola De Samba Da Portela "GRÊMIO RECREATIVO ESCOLA DE SAMBA DA PORTELA" Continental SLP10.061 (1972)
Coro Dos Compositores Da Portela "MINHA PORTELA QUERIDA SAMBAS DE TERREIRO / 1972" Odeon/EMI 581384-2 (1972)
Manacéia, Frabcisco Santana, Alvaiade, Monarco, Walter Rosa, Casquinha, Marçal, Alcides Lopes and others
"HISTÓRIA DES ESCOLAS DE SAMBA - PORTELA" Marcus Pereira COPA0057 (1974)
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台湾語+ネオ・ソウル 陳以恆 [東アジア]

陳以恆  但係我袂驚惶.jpg

まさに、ディアンジェロの“VOODOO” の申し子世代のネオ・ソウルだね、これは。
94年生まれのシンガー・ソングライター、陳以恆(チェン・イーヘン)のデビューEP。
たった4曲、13分足らずのアルバムなんですけれど、
キラッキラ輝く才能に感じ入って、何度もリピートしてしまいます。

ロバート・グラスパーを参照した演奏力も高く、サウンドはハイ・クオリティ。
いやぁ、ほんとに台湾インディ、めちゃくちゃレヴェル高いな。
ここのところ立て続けに買っていますけど、ハズレがまったく無いもんね。
おかげで、ずいぶん台湾のオンライン・ショップを知ることができました。
本作は3年前のEPで、そろそろフル・アルバムを出してもよさそうなものだけれど、
それらしいニュースはなく、じっくりと音楽制作をしているのかな。待ち遠しいですね。

チェン・イーヘンは早稲田大学へ留学していて、東京に住んでいたんだそう。
日本とも縁があるのなら、リニオンが THREE1989 とコラボ曲をリリースしたように、
日本のアーティストとコラボする可能性があるかもしれませんね。

ちなみにこのデビューEP、全曲台湾語で歌って、現地で話題になったのだそうです。
94年生まれで台湾語を喋れるって、ちょっとビックリなんですが、
やはり後学で修得したんだそう。そりゃそうだよね。
台湾では56年に学校で台湾語が禁止されて以降、
北京語(台湾国語)化が進められたので、台湾語を喋れるのは老人だけ。
台湾語が解禁されたのは、戒厳令が解除される87年になってからのこと。

なんでも大学に入り、ベネディクト・アンダーソンのナショナリズムや、
エドワード・サイードのポスト・コロニアリズムを学んだことを契機に、
自分の創作活動を省みて、台湾語で歌うことに自覚的になったそうです。

黑名單工作室  抓狂歌.jpg

90年代に新台湾語歌曲運動が盛り上がり、
林強や陳明章といった若いアーティストたちが台湾語で歌い始め、
日本でもワールド・ミュージック・ブームの流れで聞かれるようになったことがありました。
当時聴いたCDでは、黑名單工作室の『抓狂歌』(89)が忘れられませんけれど、
あのとき以降、台湾のポップスをフォローしてこなかったもんで、
チェン・イーヘンの試みが、この当時の新台湾語歌曲運動と連続性があるのか
どうかが興味あるところだけど、そのあたり誰かインタヴューしてくれないかなあ。

さきほど挙げた、台湾オルタナティヴの一大傑作『抓狂歌』だって、
チェン・イーヘンが生まれる前のアルバムですからね。
いずれ出るフル・アルバムでも、台湾語+ネオ・ソウルが聞けるかな。

陳以恆 「但係我袂驚惶」 陳以恆 no number (2019)
黑名單工作室 「抓狂歌」 滾石 RD1052 (1989)
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R&Bソングライターのメロウ・グルーヴ傑作 マニー・ロング [北アメリカ]

Muni Long  PUBLIC DISPLAYS OF AFFECTION.jpg

涙腺崩壊。

この温かな声。柔らかく耳に絡みついてくる、人なつっこい節回し。
フックの利きまくった楽曲に、90年代R&Bフィール濃厚なサウンド。
ライミングを効果的に使った歌詞が生み出すグルーヴ。
フェイクから溢れ出す狂おしさに、これが泣かずにいられよかというアルバムです。

プリシラ・レネイの本名で、リアーナ、メアリー・J. ブライジ、マライア・キャリー、
アリアナ・グランデなど、R&Bとポップスの双方で、
数々のヒット曲を手がけるソングライターとして活躍するも、
ソロ・アーティストとしてはなかなか成功できずにいたという彼女。
マニー・ロングと改名し、昨年デフ・ジャムと契約して再出発。
プリシラ・レネイ時代から通算19曲目となる ‘Hrs and Hrs’ がついにバズって、
ようやく表舞台へとジャンプした、80年代生まれの苦労人なのですね。

ぼくも昨年 ‘Hrs and Hrs’ が収録されたEPを聴いて、
CD欲しい!と身をよじってたクチだったんですが(フィジカルはLPのみ)、
続編EPと抱き合わせで、さらに新曲を追加した初アルバムがCDリリース!
で、冒頭の涙腺崩壊となったわけなんですが、
ほんとパーフェクトじゃん、このアルバム。

18曲も詰め込んでるのに、飽きがこないのは、1曲1曲のカラーが違うから。
派手にキャッチーなメロディで、曲の一部を浮き立たせる作風ではなく、
曲の流れでじっくり聞かせる力があって、丁寧に情感を伝える楽曲が揃っています。
さすが長年裏方で、ヒット・メイカーのキャリアを積んできた実力者だけあります。

スウィーティーとコラボした ‘Baby Boo’ だけが、ほかと毛色が違っていて、
ベース・ミュージック仕立ての、サマー・アンセムぽい曲。
これをラストに置いたのは、大正解でした。

全編、90年代R&Bのメロウなテイストが覆っていて、
懐かしさいでいっぱいになるんですけれど、それはオッサンの感想。
懐古ネライのアルバムでは、けっしてありません。
ロマンティックなR&B好きにはたまらない、メロウ・グルーヴの大傑作です。

Muni Long "PUBLIC DISPLAYS OF AFFECTION: THE ALBUM" Supergiant B0035943-02 (2022)
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クレオール・アフロフューチャリスティック・エレクトロニカ ドウデリン [西・中央ヨーロッパ]

Dowdelin  LANMOU LANMOU.jpg

うわー、カッコイイ!
ジュークやトラップのエレクトロなトラックに、クレオール・ヴォーカルをのせて、
ダンサブルなクレオール・エレクトロニカを繰り広げる、
フランスはリヨンをベースに活動する四人組、ドウデリン。

プロデューサーのマルチ奏者、ダヴィッド・キレジオンは、
ティグラン・ハマシアンの “SHADOW THEATER” にプログラミングで参加し、
マリのパーカッション・グループ、BKOクインテットのデビュー作の
プロデュースを務めたほか、トーゴ人ギタリスト、ピーター・ソロ率いる
ヴォードゥー・ゲームの14年の初作 “APIAFO” と16年の2作目 “KIDAYÓ” で
アルト・サックスを演奏していた、アフロ/カリビアン・サウンドに通じた人物。
名前から察するに、アルメニア系なのかな。ティグランの作品に参加しているし。

そのダヴィッド・キレジオンが、マルチニーク出身の女性シンガー、
オリヴィヤことグウェンドリン・ヴィクトランと、
グアドループ出身のパーカッショニスト/シンガー、ラファエル・フィリヴェルに、
ドラマーのグレゴリー・ブドラを加えて結成したのがドウデリン。
コンテンポラリーなR&B/ヒップ・ポップのセンスで、
ヒップ・ホップのビートに、アフロ/カリビアン由来のリズムを巧みに取り入れながら、
スマートなサウンドでダンサブルに聞かせます。
ヴォードゥー・ゲームのピーター・ソロも、1曲で友情参加していますよ。

グウォ・カで使われる太鼓のカや小物打楽器が生み出す生音のリズムと、
エレクトロ・ビートのミックスぶりが絶妙で、ダヴィッド・キレジオンが演奏する
サックスやキーボード、スティールパンのサンプリングも効果的。
ラスト・トラック ‘On Nou Alé’ の輪唱なんて、親しみやすく出来ているけど、
先祖帰りと未来志向をドッキングさせたアイディアには、知性を感じるなあ。
スムースでメロウなサウンド・メイキングのセンスは、
UKのヌビアン・ツイストに通じますね。

それにしても、セネガルのラスもそうだったけれど、
リヨンに面白いシーンが生まれているのかな。
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2022-10-02
これまで意識したことがなかったですけれど、
パリでなく、リヨンに注目する必要ありかも。

Dowdelin "LANMOU LANMOU" Underdog UR836772 (2022)
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モントルーのジョアン・ジルベルト [ブラジル]

João Gilberto  LIVE AT THE 19TH MONTREUX JAZZ FESTIVAL.jpg   João Gilberto  LIVE IN MONTREUX.jpg

ジョアン・ジルベルトをリアルタイムで聴き始めたのは、77年の”AMOROSO” から。
当時は、いまのようになんでもホメる大甘な評論家なんていなかったから、
「品位にかげりが生じた」(『ニューミュージック・マガジン』1977年9月号
平岡正明×長谷川きよし×中村とうよう 対談中の平岡正明の発言から)
なんてキビしい言葉を投げつけられていましたけれど、
平岡さんがそう見立てた論拠には、ぼくも大いにうなずいたものです。
あの頃の評論家の洞察力には、ホント、かなわないよなあ。

やっぱジョアン・ジルベルトは、オデオン3作と70年の“EN MÉXICO” だけだなと、
はや70年代の時点で評価を固めてしまっただけに、
86年に出た“LIVE AT THE 19TH MONTREUX JAZZ FESTIVAL” には、驚きました。
長くジョアンから聞けなくなっていたイキオイと力強さが、戻っていたからです。
リアルタイムで聞いたジョアンのアルバムで満足したのは、この一作だけでしたね。

時は、85年7月18日。あのやかましいモントルーの客を、よく黙らせたものです。
行儀悪いからなあ、モントルー・ジャズ・フェスティヴァルの客は。
このレコーディングが奇跡的だったのは、ジョアンのパフォーマンスもさることながら、
観客のマナーの良さにあったんじゃないでしょうか。
「シーーーーッ!」なんて、観客が周りに呼びかけてるくらいだもんね。

2枚組LPがのちにCD化された際の、日本製のブラジル盤についてのトリビアは、
以前記事を書いたので、参照いただくとして、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2016-08-10
本作は7月18日のパフォーマンスを完全に収録したものではありませんでした。
実際の演奏とは曲順も入れ替えているし、曲もいくつかカットされています。

カットされた曲のうち、‘Rosa Morena’ は、アメリカのエレクトラ・ミュージシャンが
本作の短縮編集盤を出した時に追加され、聴けるようになりました。
そして今回、このほかの未収録曲、‘Wave’ ‘Chega De Saudade’
‘Samba De Uma Nota Só’ ‘Isto Aqui O Que É’ を収録したCDが突然出たんです。

João Gilberto  MONTREUX 1985.jpg

有名ジャズ・アーティストの非公式ラジオ放送音源をリリースしている
ハイ・ハットが出したもので、ま、要するにブートなんですけど、
1曲目が演奏の途中から始まる ‘Wave’ でピンときました。
これ、昔買ったことのあるブートDVDと同じ音源ですね。
このモントルー・ライヴは、当時映像も出す予定で撮影されたものの、
結局発売中止になってしまったんですよね。

そのヴィデオ・テープが流出したらしく、ブートDVDを昔買ったんですが、
音質・画質ともに劣悪で、のちに処分してしまいました。
1曲目が途中から始まる ‘Wave’ だったことはよく覚えているし、
その他のアルバム未収録曲も同じだった記憶があるから、間違いないでしょう。
ハイ・ハット盤の音質はまずまずなので、
あのライヴ盤のファンなら、手元に置いておきたいアルバムですね。

João Gilberto "LIVE AT THE 19TH MONTREUX JAZZ FESTIVAL" WEA 2292547282-2 (1986)
João Gilberto "LIVE IN MONTREUX" Elektra Musician 9-60760-2
João Gilberto "MONTREUX 1985" Hi Hat HHCD3198
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94歳で初ソロ作を出したアフロ・コロンビア音楽の名作曲家 マヒン・ディアス [南アメリカ]

Magín Díaz  EL ORISHA DE LA ROSA.jpg

前回記事のアルバムをきっかけに始めたコロンビア盤輸入作戦でしたけれど、
まさかこのCDを入手できるとは思っていませんでした。
既に入手困難で、レアCDになっていると聞いていただけに、
「あるよ」の返事をもらった時は、思わずガッツ・ポーズしちゃったもんねえ。

マヒン・ディアスが誰かも知らず、いい味出してるオヤジが写ったジャケットに、
これ、ゼッタイいいヤツ!とヨダレを垂らしてたんですが、
いやぁ、手に入れてみて、想像をはるかに超えたトンデモ級の大傑作で、
大カンゲキしちゃいました。

Magín Díaz  EL ORISHA DE LA ROSA package.jpg

まずCDが届き、外装フィルムをはがして、装丁の豪華さにビックリ。
観音開きになっている左右には、上下に開くポケットが付いていて、
計4つのポケットには、それぞれCD、ブックレット、
18枚のアートカードを封入した、二つのエンヴェロップが入っています。
ひと昔前のコロンビアではとても考えられないような、
アーティスティックなパッケージに、ドギモを抜かれました。

ボーナス・トラックの2曲を含む全18曲、収録時間78分40秒に及ぶこのアルバム、
四大陸13か国から、100人におよぶミュージシャンとエンジニア、
19人のグラフィック・アーティストが参加して、
4年をかけて制作されたという、壮大なプロジェクト作品。
力作なんて言葉じゃ足りないくらいの、タイヘンなアルバムです。

マヒン・ディアスって、いったいどういう人?とあらためて調べてみると、
アフロ・コロンビア音楽の名曲を数多く生んだ歌手だったんですね。
22年、コロンビア北部ボリバル県マアテス市ガメロ村の生まれ。
貧しい家に生まれ、サトウキビ刈りの父親は歌手でダンサー、
製糖工場でコックをする母親はパレンケの女性が歌う
ブジェレンゲの名歌手だったというのだから、彼もまたパレンケーロなのでしょう。

読み書きを学ぶこともなく、幼い頃から製糖工場で働き、
工場でキューバからやってきた出稼ぎ労働者にキューバの曲や音楽を学び、
父親から歌や作曲、タンボーラを習って、音楽の才能を伸ばしていきました。
そんな少年時代にキューバ人から覚えたのが、
セステート・アバネーロが1927年に発表した ‘Rosa, Qué Linda Eres’ でした。
マヒン少年はこの曲を、ソンからチャルパの形式に変え、
自作の詩を付けて‘Rosa’ と題して歌いました。

のちにマヒンの代表曲となったこの曲が、本作のオープニングにも置かれ、
コロンビアの大スター、カルロス・ビベスとトトー・ラ・モンポシーナを迎えて、
マヒンは力強く歌っています。
オリジナルのアバネーロのヴァージョンにあった、悲痛なエレジーは消え失せ、
マリンブラの伴奏が祝祭の彩りを強調しているのは、
逃亡奴隷が自由を勝ち得たパレンケが、
この曲に新たな息吹を与えたことを示しています。

マヒンは、80年代にロス・ソネーロス・デ・ガメロのメンバーとなるまで、
レコーディングとは無縁に過ごしてきました。
コミュニティの外の世界では無名だった彼が、
作曲家として光があたるようになったのは、90歳を過ぎてからのことです。
12年に初のレコーディングを経験したあと、本作の制作が企画され、
17年に94歳で初アルバムを完成させました。

本作によってコロンビア政府は、アーティストに与える最高の評価である
文化省の「国家生活・労働賞」をマヒンに授与し、
その年のラテン・グラミー賞のベスト・フォーク・アルバムと
ベスト・パッケージ・デザイン・アルバムの二部門にノミネイトされました。
マヒンは、息子のドミンゴ・ディアスとともに、グラミー賞授与式に出席するため
ラス・ヴェガスへ向かい、最優秀フォーク・アルバム賞は逃したものの、
最優秀パッケージ・デザイン・アルバム賞を獲得したのです。

本作に参加した数多くのミュージシャンのなかで、
目立ったところだけ取り上げると、ブジェレンゲの名歌手ペトローナ・マルティネス、
アフロ・コロンビアン・エレクトロのシステマ・ソラール、
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2010-08-10
コロンビア版マヌーシュ・スィングのムッシュ・ペリネ、
メキシコはモンテレイのクンビア王、セルソ・ピーニャ、
元OK・ジャズの名ギタリスト、ディジー・マンジェク(18年にバロジと来日!)
https://bunboni58.blog.ss-blog.jp/2018-03-27
DJ/トロピカル・ブレイクビーツ・メイカーのキャプテン・プラネットなど、
新旧世代の多士済々がマヒンを守り立てています。

マヒン自身も、90歳を超す年齢とは思えないパワフルな歌声で、
フィーチャリングされた歌手たちに負けない存在感を示していて、
圧巻の一語に尽きます。声を張り上げて高音を伸ばし続けて歌うさまに、
90年の人生を賭して初アルバムに駆ける鬼気すら感じて、
ゾクゾクしてしまいました。

マヒンはグラミー賞授与のために訪れたラス・ヴェガスで体調を崩して入院し、
病院で受賞を知った後に亡くなりました。
あと2日で、95歳を迎えようという日のことだったそうです
(12/30/1922 - 12/28/2017)。
これほどの素晴らしい大作を、生涯の最後に作り上げて逝くなんて、
これ以上ない音楽人生のフィナーレといえないでしょうか。

Magín Díaz "EL ORISHA DE LA ROSA" Noname/Chaco World Music no number (2017)
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アフロ・コロンビア音楽の饗宴 トトー・ラ・モンポシーナ、グルーポ・バイーア、オルケスタ・デ・ルーチョ・ベルムーデス [南アメリカ]

Totó La Momposina, Grupo Bahía, Orquesta De Lucho Bermúdez  OJO DE AGUA.jpg

トトー・ラ・モンポシーナの新作が19年に出ていると聞いて、
欲しいなぁ~と思っていたんですが、
コロンビア国内でしか売っていないというので、クヤし涙をのんでおりました。
なんだかここ2・3年、コロンビア国内のみで流通している作品が
目に付くようになってきたなあ。

こりゃあ、なんとかせにゃいかんと、
「コロンビア盤輸入作戦本部」を立ち上げて、対策に乗り出しましたよ。
てのはウソですが、本腰を入れて入荷ルートを開拓しなければと。
根気よくお店をあたり続けて、オファーを受け入れてくれるところを
ようやく見つけ、オーダーしました。

初めてのお店だったので、遅配などのトラブルを防ぐため、
DHLで送ってもらったんですけれど、案の定というか、税関で開封され、
税関御用達の補修テープぐるぐる巻きで届きました。
う~む、税関って、DHLだろうが容赦ないのね。
コロンビアからCDを輸入すると、毎回必ず税関に開封されるんだけど、
これって、何を疑ってんの? 麻薬?
ペルーからの荷もときどき開封されるけれど、ブラジルは一度もないな。

で、届いたこのアルバムなんですが、トトー・ラ・モンポシーナの新作ではなく、
グルーポ・バイーア、オルケスタ・デ・ルーチョ・ベルムーデスという、
アフロ・コロンビア音楽を代表する三者による、豪華共演作だったんですね。
オープニングのルーチョ・ベルムーデス作のマパレ ‘Prende La Vela’ で、三者が共演。
39年結成のコロンビアの名門、ルーチョ・ベルムーデス楽団をバックに
トトーが歌うのなんて、初めて聴くなあ。
コスタ(カリブ海沿岸)の音楽を現代化するグルーポ・バイーアも加わって、
ここでしか聴けない贅沢なサウンドになっています。

ルーチョ・ベルムーデス楽団は、管楽器だけで、サックス5、トランペット5、
トロンボーン4もいる大編成。複数の男女歌手を擁していますけれど、
女性歌手の一人が、めちゃチャーミング♡
クレジットに二人の女性の名前があるものの、特定できないのが残念であります。

グルーポ・バイーアは、リーダーのウーゴ・カンデラリオが弾く
マリンバがトレードマークで、このアルバムでもサウンドのキーとなっていますね。
ウーゴ・カンデラリオは、アフロ・コロンビア音楽を広める文化活動として、
このグループを結成しましたけれど、コロンビアを代表するグループとして、
海外の国際的な場で演奏をしてきた25年の実績があります。

トトーが歌うガイタの ‘Margarita’ のグルーヴなんて、やっぱり最高ですね。
縦笛のガイタ・エンブロも大活躍していますよ。
これぞアフロ・コロンビア音楽の饗宴。
こういうアルバムこそ、全世界に流通させなきゃいけません。

Totó La Momposina, Grupo Bahía, Orquesta De Lucho Bermúdez "OJO DE AGUA" Acento Mestizo no number (2019)
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